保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

大阪市廃止住民投票について(4) ~全体主義的手法~

大阪市を廃止するというやり方には、「全体主義」的なものが感じられる。全体主義と言えば、ソ連邦ナチスドイツが思い起こされるところであるが、全体主義化の第一歩が「中間組織」の破壊である。

《共通の世界が完全に破壊され、内部に何らの相互関係を持たない大衆社会、単に孤立しているばかりでなく、自分自身以外の何者にも頼れなくなった相互に異質な個人が同じ型にはめられて形成する大衆社会が成立したときはじめて、全体的支配はその全権力を揮って何ものにも阻まれずに自己を貫徹し得るようになる》(ハナ・アーレント全体主義の起原 第3巻』(みすず書房)大久保和郎・大島かおり訳、p. 34)

 国家と個人の間には、本来様々な組織が介在する。家族があり、地域社会があり、職場や学校がある。それらにはそれら独自の仕来(しきた)りがあり、習慣があり、規範がある。そしてそこには固有の価値観があり、「常識」がある。

《常識というものは本来、全く曖昧さのない現実、すべてが完全に一致する現実なぞあり得ないと考えている…しかしもし常識がこの先入観を持たなかったら、常識は現実的な判断力を失って、人間の悟性自体に内在する矛盾のない推理のロジックのみを頼るようになる》(同、p. 81)

 大阪市を廃止すれば、「二重行政の無駄」がなくなり、大阪再生の基盤が出来るなどという話は「常識」的には胡散臭い限りであるが、判断の基準となる「常識」が無くなれば、維新の掲げる「構想」を悟性の赴くまま信じざるを得なくなってしまうだろう。

《自由な人民の力が住まうのは地域共同体の中なのである。地域自治の制度が自由にとってもつ意味は、学問に対する小学校のそれに当たる。この制度によって自由は人民の手の届くところにおかれる。それによって人民は自由の平穏な行使の味を知り、自由の利用に慣れる。地域自治の制度なしでも国民は自由な政府をもつことはできる。しかし自由の精神はもてない。束の間の情熱、一時の関心、偶然の状況が国民に独立の外形を与えることはある。だが、社会の内部に押し込められた専制は遅かれ早かれ再び表に現れる》(トクヴィルアメリカのデモクラシー 第1巻(上)』(岩波文庫)松本礼二訳、p. 97)

 大阪市民には大阪市民独自の「常識」がある。それは長年の歴史を積み重ねてきた先人の営為を通し有難くも培われたものである。

《地域共同体の自由は人間の努力次第でできるというものではない。したがって、それが人の手で創り出されることは滅多になく、いわばひとりでに生まれてくるのである。それは半ば野蛮な社会の中でほとんど人知れず成長する。法と習俗と環境、なかんずく時間の絶えざる作用がようやくこれを確たるものにする》(同)

 言うまでもなく、「常識」は大阪市という母体あってのものである。大阪市が無くなれば、この「常識」は雲散霧消してしまい、日常は混沌としたものとならざるを得ないであろう。【了】