保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

菅首相の「自助・共助・公助」発言について(1) ~枝野氏、志位氏の批判にならない批判~

菅義偉(すが・よしひで)首相が就任後の記者会見の終わりに述べた「自助」という言葉が波紋を広げている。

「私が目指す社会像、それは、自助・共助・公助、そして絆であります。まずは自分でやってみる。そして家族、地域でお互いに助け合う。その上で政府がセーフティーネットでお守りをする。こうした国民から信頼される政府を目指していきたいと思います」

 これに立憲民主党枝野幸男代表が噛み付く。

「政治家が自助と言ってはいけない。政治の責任放棄だ」

 が、かつて自分も「自助」という言葉を口にしている。

生活保護という仕組みは、本来は、なければない方が望ましい制度なんだ。まさに自助、共助、公助であって、本来は、各個人が自分の責任と自分の努力で生きていければ一番いいんだけれども、ところが、人間社会というのは必ずしもそうはできない。そうした中でお互いの助け合いという共助の仕組みがある。そして、そういうやり方の中でもどうしても救えないケースが出てくるからこそ、最後のベースとしての生活保護が存在をしているのであって、できるならば自助と共助の世界の中で、生活保護という仕組みを受ける人がいなくなる社会が我々の目指すべき社会なのではないか、私はそういうふうに思っています」(2005年7月29日「年金制度をはじめとする社会保障制度改革に関する両院合同会議」)

 <生活保護という仕組みを受ける人がいなくなる社会が我々の目指すべき社会なのではないか>と、まるで「公助不要」を主張するかのような発言をしてきた枝野氏が<政治家が自助と言ってはいけない>などと言うのは明らかな自家撞着でしかない。

 日本共産党志位和夫委員長も次のように述べている。

《菅氏がもう一つ強調したことは、「自助、共助、公助」、すなわち「自己責任」の強調だった。しかし、国民に「自助」を求めるだけだったら政治は何のためにあるのか。そんな政治に存在価値はない。

 国民に「自己責任」を押し付ける冷酷な新自由主義の暴走が、菅体制のもとで、これまでよりいっそうひどくなることを強く警戒しなければならない》(2020年9月15日(火)付「しんぶん赤旗」)

 菅首相の発言をこのように解釈するとすれば、そしてわざと発言を捻じ曲げてとっているのでなければ、それはもう「被害妄想」というしかない。どこをどうとれば<国民に「自助」を求めるだけ>ということになるのか。実際、菅首相は次のように言葉を継いでいる。

「そのためには行政の縦割り、既得権益、そして悪しき前例主義、こうしたものを打ち破って、規制改革を全力で進めます」

 <自助、共助、公助>社会と<規制改革>がどうつながるのか疑問に思わなくもないが、少なくとも、<国民に「自助」を求めるだけ>でないことだけは確かである。【続】