保守論客の独り言

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憲法9条を巡って(2) ~長谷部説は解釈改憲~

井上氏は続ける。

《ちなみに、この第2項の冒頭に「前項の目的を達するため」を挿入したのは芦田均なのですが、これによって、自衛のための軍備を合憲とする余地を残した、とする説があります。そういう「隠された意図」があった、と。

 しかし、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」という明確な文章に、「前項の目的を達するため」を挿入するだけで、自衛戦力を合憲にできるなどという主張は、およそ通常の日本語感覚では理解不能です。そもそも、そういう「密教的解釈」を許すことは、「秘密法の禁止」という法の大原則に反します。

 この憲法9条の字句どおりの要請にしたがって、自衛隊と安保は違憲だ、とする立場を、私は「原理主義護憲派」と呼んでいます。そして、9条解釈としては、この原理主義護憲派が正しいのは明らかです》(井上達夫『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』(毎日新聞出版)、p. 47)

 私も井上説に同意する。一方、長谷部氏は次のように言う。

《第9条を基礎づけているのが、「戦争」=「地獄」理論にもとづいて、国家間の対立関係をチキン・ゲームとして見る立場に立っているのであれば、文字どおり軍備の保持をいっさい禁じている準則と見ることも可能である。しかし、この立場をとることは、前に見たように、世界全体をより平和にすることにはさして役立たない。自分だけが助かればよいというだけである。

 また、第9条を準則として見ることの根拠となる他の議論--パルチザン戦の遂行、非暴力抵抗の唱導、善き生き方としての絶対平和主義、世界警察への依存--は、いずれも平和を実現するための現実的手段とは考えにくく、それぞれの前提とする戦争観と整合しているかも疑わしい。なかでも、たとえいかなる結果になろうとも「善き生」をまっとうするには絶対非武装平和主義を貫くしかないという立場は、シヴィックヒューマニズムの国家観と同様、立憲主義の基本的前提とは両立しえない。

 これに対して、国家間の安全保障の枠組みを通じて、世界全体としての平和を目指すべきなのだが、このプロジェクトが含む実際的な困難に対処するために、あえて憲法第9条が合理的自己拘束として設定されているのだという穏和な平和主義の立場からすれば、この条文が準則を示していると考えるべき理由は乏しい。軍備の保持がもたらす実際的困難の解決は目指すべきであるが、それと同様に考慮にいれるべき、他の対立する考慮も、国際的平和の実現のためには存在しているはずだからである。

 そして、憲法第9条が準則ではなく、原理を示しているにすぎないのであれば、自衛のための最低限の実力を保持するために、この条文を改正することが必要だとはいえないことになる。他人の名誉やプライバシーを侵害する文書を規制するために、憲法21条を改正する必要がないことと同様である》(長谷部恭男『憲法と平和を問い直す』(ちくま新書)、pp. 172-173)

 1つの優れた見識であるとは思うけれども、もともと「9条」はそのようなものではなかった。マッカーサーが日本を軍事的に骨抜きにしようと、「非武装」を謳ったのであった。

 したがって、長谷部氏の見解は憲法解釈の変更、つまり「解釈改憲」と言わざるを得ない。【続】