保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

憲法9条を巡って(1) ~井上達夫 vs. 長谷部恭男~

新年あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
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さて、新年最初の題目は「憲法9条」である。私はこれまで何度も「9条」について自説を述べてきた。そのことを知っている人であれば、今更感があるだろうが、今回は井上達夫、長谷部恭男、2人の法学者の見解を基に、あたらめて「9条」を考えてみたい。

 井上達夫東大教授は言う。

《9条解釈としては、文理の制約上、絶対平和主義を唱えているとしか、捉えようがない。

日本国憲法第9条】

  1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

  2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 この第2項の解釈としては、自衛隊も安保も放棄する、いわゆる「非武装中立」の絶対平和主義を唱えていると、日本語を理解する者なら思うでしょう。そうとしか読めない》(井上達夫『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』(毎日新聞出版)、pp. 46-47)

 私も<そうとしか読めない>。が、長谷部恭男東大名誉教授は異論を唱える。

《一般に法規範といわれるもののなかには、ある問題に対する答えを一義的に定める準則と、答えをある特定の方向へと導く力として働くにとどまる原理とがある。たとえば、ある道路が駐車禁止であるか否かを定める法は準則である。駐車禁止であるか否かは、一義的に決まっていなければならない。道路の交通規則や手形・小切手の効力に関する規定の多くはこうした性格を持っている。

 これに対して、たとえば、表現の自由などの憲法上の権利の保障を定める規定のほとんどは、原理を定めているにとどまる。表現の自由が保障されているからといって、人の名誉やプライバシーを侵害する表現活動にいたるまで、文字どおり「いっさいの」表現の自由が保障されるわけではない。表現の自由の尊重と同様、裁判所をはじめとする国家機関が考慮しなければならない、それとは対立する他の原理も存在するからである。

 憲法第9条は、準則と原理のいずれだと考えるべきであろうか》(長谷部恭男『憲法と平和を問い直す』(ちくま新書)、pp. 171-172)

 このように問い掛けるからには長谷部氏は憲法9条は「準則」(rule)ではなく「原理」(principle)だと考えているのであるが、このように考えることによって、自衛隊は9条2項に<陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない>とあっても「違憲」とはならないという理屈である。

 歴代内閣は、自衛隊は合憲との立場をとってきたが、長谷部氏の説はこの裏付けと成り得るものである。【続】