保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

「自由」には制限が必要だ

《自由という言葉からは、しなやかさを連想します。ですが最近「表現の自由」は縮こまっているように感じます》(9月22日付東京新聞社説)

と社説子は言う。が、どうして「自由」は<しなやか>なのであろうか。「自由」とは「抑圧」のない状態ということであるが、どうして「抑圧」がなければ<しなやか>なのか。

《今夏、名古屋市で開かれていた企画展「表現の不自由展・その後」が開催から数日で打ち切りとなりました。旧日本軍の慰安婦を象徴した少女像の展示などに抗議が殺到し、その中には脅迫と思われるものも含まれていました》(同)

 一番の問題は<少女像>ではない。「昭和天皇御真影」を燃やし踏み付けた映像、さらに大東亜・太平洋戦争の特攻隊を「間抜けな日本人」と揶揄(やゆ)したことにある。どうして左寄りマスコミはこのことを伏せるのであろうか。やはりこれはさすがに問題だと自分たちも思っているということではないか。

《近年、憲法や戦争などにまつわる展示や講演会に、行政が「政治的中立性」を理由に後援しなかったり、作品の撤去を要請したりする事例も相次ぎます。戦前の治安維持法とは違い、一種の「空気」によって、意見の分かれる問題について考えたり議論したりする場が縮まっていきかねない風潮に懸念を覚えます。民主主義の足腰の強さにかかわります》(同)

 これは左翼、右翼の両方に言えることであり、そのことを踏まえた上で良くない風潮であるというのなら正しい指摘である。ここには自分たちの意見は「正しい」、自分たちが気に入らない意見は「間違っている」という「強い思い込み」がある。

《私が使っている広い意味でのナショナリズムには、共産主義、政治的カトリシズム、シオニズム、反ユダヤ主裁、トロツキズム、平和主義、といったような連動や傾向も含まれる。それは必ずしも政府や国家に対する忠鍼を意味せず、ましてや自分の国に対する忠鍼を意味するものではない。またその対象となる単位が現実に存在することさえ、必ずしも必要ではない》(ジョージ・オーウェルナショナリズム覚え書き」:『オーエル評論集2 水晶の精神』(平凡社)、p. 37)

ナショナリストは単に強い方に味方するという原則に基づいて動くものではない。逆に、いったん自分の立場を決めた以上は、それがいちばん強いのだと自分に言いきかせ、いかに形勢が非なる場合でもその信念を守り通す。ナショナリズムとは自己欺瞞を伴った権力欲といえる。すべてのナショナリストはまぎれもない歪曲もあえて辞さないが、それでいて―何か自分よりも大きな存在に殉じているという意識があるので―自分が正しいと信じて疑わないのである》(同、p. 38)

 憲法第12条に言うように、

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

 自由を破壊する自由や公序良俗に反する自由に対しては社会の秩序を維持する上で一定制限されるべきである。「表現の不自由展・その後」は、やはり限界線を踏み越えてしまっている