保守論客の独り言

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閣僚の靖国神社参拝について(4) ~宗教否定とマルクス思想~

マルクスは言う。

《宗教は、人間的本質が真の現実性をもたないがために、人間的本質を空想的に実現したものである。それゆえ、宗教に対する闘争は、間接的には、宗教という精神的芳香をただよわせているこの世界に対する闘争なのである。

 宗教上の悲惨は、現実的な悲惨の表現でもあるし、現実的な悲惨にたいする抗議でもある。宗教は、抑圧された生きものの嘆息であり、非情な世界の心情であるとともに、精神を失った状態の精神である。それは民衆の阿片である》(カール・マルクスヘーゲル法哲学批判序説』:『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』(岩波文庫城塚登訳、p. 72

 唯物論からすれば、宗教など有って無きが如しの「幻想」であり、現実を逃避するための「麻薬」ということになるのだろう。が、このように宗教を否定することが<精神を失った状態の精神>を生み、現実に抗(あらが)う人達を光無き「暗室」に閉じ込めてしまうことにならないのか。むしろ宗教を否定するマルクス思想こそが理性を麻痺させ昂揚させる「アヘン」のような気がしてしまう。

《民衆の幻想的な幸福である宗教を揚棄することは、民衆の現実的な幸福を要求することである。民衆が自分の状態についてもつ幻想を棄てるよう要求することは、それらの幻想を必要とするような状態を棄てるよう要求することである。したがって、宗教への批判は、宗教を後光とするこの涙の谷〔現世〕への批判の萌しをはらんでいる。

 批判は鎖にまつわりついていた想像上の花々をむしりとってしまったが、それは人間が夢も慰めもない鎖を身にになうためではなく、むしろ鎖を振り捨てて活きた花を摘むためであった。宗教への批判は人間の迷夢を破るが、それは人間が迷夢から醒めた分別をもった人間らしく思考し行動し、自分の現実を形成するためであり、人間が自分自身を中心として、したがってまた自分の現実の太陽を中心として動くためである。宗教は、人間が自分自身を中心として動くことをしないあいだ、人間のまわりを動くところの幻想的太陽にすぎない。

 それゆえ、真理の彼岸が消えうせた以上、さらに此岸の真理を確立することが、歴史の課題である。人間の自己疎外の聖像が仮面をはがされた以上、さらに聖ならざる形姿における自己疎外の仮面をはやことが、何よりまず、歴史に奉仕する哲学の課題である。こうして、天国の批判は地上の批判と化し、宗教への批判は法への批判に、神学への批判は政治への批判に変化する》(同、pp. 72-73

 20世紀におけるマルクス主義の壮大な実験が失敗に終わったことからも、揚棄(ようき)すべきはマルクス思想の方である。「政教分離」などと言って、宗教を排除した政治にマルクス思想を吹き込めばどうなるのか。ソ連や東欧の二の舞になりかねないのである。【続】