保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

「民主主義の退潮を食い止めよ」という読売社説(3) ~見えているのは日本の「影」~

プラトン『国家』に「洞窟の比喩」というものがある。

「地下にある洞窟状の住いのなかにいる人間たちを思い描いてもらおう。光明のあるほうへ向かって、長い奥行きをもった入口が、洞窟の幅いっぱいに開いている。

人間たちはこの住いのなかで、子供のときからずっと手足も首も縛られたままでいるので、そこから動くこともできないし、また前のほうばかり見ていることになって、縛(いまし)めのために、頭をうしろへめぐらすことはできないのだ。

彼らの上方はるかのところに、火が燃えていて、その光が彼らのうしろから照らしている。

 この火と、この囚人たちのあいだに、ひとつの道が上のほうについていて、その道に沿って低い壁のようなものが、しつらえてあるとしよう。それはちょうど、人形遣いの前に衝立(ついたて)が置かれてあって、その上から操り人形を出して見せるのと、同じようなぐあいになっている」

 「ではさらに、その壁に沿ってあらゆる種類の道具だとか、石や木やその他いろいろの材料で作った、人間およびそのほかの動物の像などが壁の上に差し上げられながら、人々がそれらを運んで行くものと、そう思い描いてくれたまえ。運んで行く人々のなかには、当然、声を出す者もいるし、黙っている者もいる」

 「つまり、まず第一に、そのような状態に置かれた囚人たちは、自分自身やお互いどうしについて、自分たちの正面にある洞窟の一部に火の光で投影される影のほかに、何か別のものを見たことがあると君は思うかね?」

 「運ばれているいろいろの品物については、どうだろう? この場合も同じではないかね?」

 「そうすると、もし彼らがお互いどうし話し合うことができるとしたら、彼らは、自分たちの口にする事物の名前が、まさに自分たちの目の前を通りすぎて行くものの名前であると信じるだろうとは、思わないかね?」

>「では、この牢獄において、音もまた彼らの正面から反響して聞えてくるとしたら、どうだろう?〔彼らのうしろを〕通りすぎて行く人々のなかの誰かが声を出すたびに、彼ら囚人たちは、その声を出しているものが、目の前を通りすぎて行く影以外の何かだと考えると思うかね?」

 「こうして、このような囚人たちは…あらゆる面において、ただもっぱらさまざまの器物の影だけを、真実のものと認めることになるだろう」(プラトン『国家』:『プラトン全集11』(岩波書店)藤沢令夫訳:514A-515C)

 戦後日本人が見ているものの大半は日本の「影」ではないのか。日本国憲法とは名ばかりの「占領基本法」によって思考が縛られ、真の日本の姿が見えていない。その見えていない人々がああだこうだと言い合っているのが戦後民主主義というものなのではないか。【続】