《ドイツの法学者カール・シュミットが言う「委任独裁」が思い出される。戦争など非常時に主権者の全権委任によって一時的、例外的に行われる独裁である》(5月3日付北海道新聞社説)
シュミットは、「独裁は、ローマ共和国の賢明なる発明」だと言う。
《独裁官とは、王たちの放逐のあとに設けられた臨時のローマの政務官であって、危急時に強力な最高権力をもち、その権限は〔通常の〕執政官の職権のように、合議により、あるいは護民官の異議申し立て権および民会への提議権によって制約されることがない…元老院の要請にもとづき、執政官のなかから任命される独裁者の任務は、その任命の理由となっている危機的状況を除去すること、すなわち戦争遂行(軍事独裁)ないしは内乱鎮圧(治安独裁)にあったが、のちの時代には、個々の特別なことがらを処理するためにも独裁者が立てられた》(カール・シュミット『独裁』(未来社)田中浩・原田武雄訳、p. 16)
が、「独裁(者)」と聞けば、当然次のような心配が起こる。
《識者のなかには、えてして、ローマ人がそこに臨時独裁執政官の制度を導入したことを見て、このためにやがてローマが借主政治に毒されることになったのだと非難を加えようとするものがいるようである。そして、これら識者たちは、ローマに現われた最初の借主が臨時独裁執政官という称号をもって都市に号令をくだしたのだと主張する。
さらに、この制度がつくられてさえいなかったら、カエサルもほかのどんな称号を帯びてみたところで、とても専制的な権力を手に入れることはできなかったはずだ、と力説する》(マキャベリ「政略論」永井三明訳:『世界の名著16』(中央公論社)、pp. 271-272)
が、マキャベリは次のように反駁(はんばく)する。
《臨時独裁執政官の任期はきわめて短く、その保持する権力も制限つきであり、しかも、ローマ民衆もまだ堕落していなかったという諸条件が重なっていたから、臨時独裁執政官といえども、与えられた権限の外にふみはずして、国家に害毒を流すことは、しようにもすることができなかった》(同、p. 273)
それどころか、
《共和国で普通行なわれている政治上の手続きは、その運びがのろのろしたものなので、審議会にしても行政官にしても、どんなことでも自分たちだけで事を運ぶことができず、たいていのことは他の人と共同して行動する仕組みになっている。それで、これらの人々の意志の統一をはかるために、かなりの時間が必要となる。こういうのろのろした方法は、一刻の猶予も許されないばあいには、危険きわまりないものである。したがって、共和国は、その制度のなかに臨時独裁執政官のような役職をかならずつくっておかねばならないのである》(同)
とまで言う。
まさにこの同じ理由から、「緊急事態条項」のない日本国憲法は危ういと言えるのではないだろうか。
そのことは、本当に戦争、内乱、自然災害、世界的感染症といった緊急事態が起こらなければ分からないことではある。が、コロナ禍に苛(さいな)まれている今、そのことに思い至らない人達はよほどの不感症だと言わざるを得ない。【了】