保守論客の独り言

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裁判員制度10年(4) ~民主主義を学ぶ学校~

《殺人でも量刑が重くなる傾向があり、裁判員らは死刑判決もいとわなかった。制度開始時には一般国民が死刑を選択できるか疑問視する意見もあった。だが裁判員は真摯(しんし)に事件と向き合い、悩んだ末に多くの裁判で死刑判決を選択した》(520日付産經新聞主張)

 悩んだ末に選択したからといってそれが「正しい」とは限らない。当人にとっては非常に重いことではあろう。が、たかが素人が少々悩んだくらいのことを過大評価しても始まらない。素人6人が悩んだくらいで「殺人」を肯定できるわけがない。

《国民の司法参加に求めたのは、その日常感覚を判決に反映させることで、そこには「先例の傾向」が国民の常識からかけ離れているとの反省がこめられていたはずである。量刑を過去の傾向に求めるなら人工知能に任せればいい。行き過ぎた先例重視は制度の趣旨を揺らがせる》(同)

 たとえ「先例の傾向」が国民の常識からかけ離れていたとしても、それを是正するのにどうしてわざわざ国民が日常の仕事を休止してまで司法参加しなければならないのか。否、たかが6人の素人が参加してどうしてこれが是正されるというのか。はたまた、どうしてこのような是正の仕方が採用されねばならないのか。

裁判員制度が始まって10年になる。プロ裁判官だけの刑事裁判の世界に市民たちが風穴を開けるか期待された。民主主義を学ぶ学校であることも》(520日付東京新聞社説)

 <プロ裁判官だけの刑事裁判の世界>に市民たちが開けた風穴がどうして「正しい」ものだと言えようか。間違った風穴を開けてしまう可能性も十分あるのである。もし間違った風穴を開ければ誰がその責任を負うのか。言うまでもなく、6人の素人裁判官が責任を負えるはずがない。では全体責任か。が、全体責任は無責任である。つまり、誰も責任を負わない体制、それが裁判員制度である。

 <民主主義を学ぶ学校>というのも噴飯物である。民主主義大好き人間にとっては、民主主義を学ぶことが大事であろう。が、私のように民主主義が嫌いな人間には大きなお世話である。

 たとえ民主主義を学ぶにしても、それを裁判員制度を通して学ぶ必要もない。大海の一滴のような密室で行われたやりとりで何がどうかわるというのだろうか。

 ここで東京社説子はモンテスキュー『法の精神』の一節を持ち出す。

裁判権力を身分や職業に結び付けないで、一年のある時期に選ばれた市民に担わせるべきだ>(同)

 三権分立を構想したモンテスキューが先哲だとしても、モンテスキューが言っていることはすべて真であると言えるわけはないし、たとえ真であってもそれが現況に即しているとは限らない。だから「理由」が必要である。ただモンテスキューが言っているからというだけでは受け入れられるわけがない。【続】