保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

裁判員制度10年(5) ~有害な民主主義論~

《もしも市民に付与される公共的義務がかなりの量にのぼることが環境上許されるならば、そのことは市民を教育のある人にするであろう。古代の社会制度と遺徳的理念には欠陥があったにもかかわらず、市民裁判や市民集会の習慣は、アテナイ市民の知的水準を、古代にも近代にも、他の社会には比類がないほど引きあげた。そのことの例証は、われわれの偉大なギリシア史家の書物のすべてのページに明らかであるが、その例証として、当時の演説の高い水準以外のものをあげる必要はほとんどないであろう。それらの演説は当時の偉大な演説家たちが、市民の知性と意志のうえにもっとも効果的に働きかけるように、工夫したものなのである。

 程度ははるかに低いとはいえ、同じ種類の利益は、陪審員になったり、教区の役職について働く責任によって、イギリスの下層中産階級にも与えられている。これらの仕事は、それほど多くの人々によって行なわれるわけではないし、またアテナイの各市民が民主的な制度から得た公的教育と比較できるほど永続的ではなく、彼らをさまざまの高度の考慮に導き入れるわけではないが、ただベンを動かしたり、店台のうえで晶物を売ったりすることのほかにしたことのない人々とは、まったく異なった人々に彼らを変えるに相違ない》(J・S・ミル『代議政治論』:『世界の名著38』(中央公論社)、p. 404)

 アテナイの話とは時代も違えば規模も違う。だからこの話を即、今の日本に当てはめられるわけもない。

 否、そもそも欧米のような個人主義的社会と日本の集団主義的社会では話が違って当然である。集団主義的社会の日本は「公」の観念は強いものがある。だからこそ国民に「裁判員裁判」に参加してもらって司法に市民感覚を反映させようということになったのであろう。

 一方、欧米のような個人主義的社会では、市民に公共的義務を課さなければ「公共心」が涵養さない。だから「公共精神の学校」のようなものが必要となるのである。

《公共精神の学校が存在していない場合には、原著な社会的地位についていない私的な個人でも、法律をまもったり政府に服従したりする以外に社会に対する義務をもっているという感じは、ほとんど育てられないであろう。人々は集団的な利益や、他の人々と協力して追求しなければならない目的についてはけっして考えないで、他の人々と競争し、ある程度まで彼らに犠牲を払わせるであろう。

 共同の利益のために共同の仕事に従事することがなければ、隣人は味方でも仲間でもなく、したがって敵にはかならないであろう。このような状態では、私的な遺徳でさえも打撃を受けるし、公的な道徳に至っては、実際上消滅してしまうであろう。このようなことがものごとの普遍的で唯一の可能な状態であるならば、立法者や道徳家のせいいっぱいの抱負は、社会大衆を、並んで無邪気に草を食べている羊の群にしてしまうこと以外にはないであろう》(同、p. 405)

 欧米と日本の事情を取り違えた民主主義論は有害である。ただ、敗戦後の個の甘やかし、そして公への執拗なる攻撃を見れば、いずれ「公共精神の学校」のようなものが必要となるときが来ないでもないと予見せざるを得ないのである。【了】