保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

象徴天皇の在り方を模索するという錯誤について(1) ~けじめ無き日本~

天皇陛下がきょう4月30日をもって退位する。

 陛下にとっては、日本国憲法が定める象徴天皇像を追い求める「旅」に終止符を打ち、緊張から解放される日といえる》(4月30日付朝日新聞社説)

 日本の悠久の歴史を貫く天皇マッカーサーに指令に従って拘束し続けているのであるからこれほど愚かなことはないだろう。そのことに異を唱えるのを目にし、耳にすることはまずもってない。私は最近「諦めの境地」にある。

 天皇は歴史伝統に基づいていればよい、否、基づかなければならないのであって、米製憲法にそぐうように伝統を変えるなどということは絶対にあってはならないことである。<日本国憲法が定める象徴天皇像を追い求める>ことは天皇が政治的に動くということであり、むしろ歴史伝統に対する「背信」ですらあるだろう。

《陛下がたどりついた象徴の務めとは、「国民の安寧と幸せを祈ること」であり、「事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うこと」だった。

 具体的には美智子さまとともに、社会的に弱い立場にある人たちとの交流、被災地の訪問、沖縄を始めとする国内外での戦没者の慰霊などを重ねてきた。ひざを折り市井の人と同じ目の高さで話すスタイルは、皇室に威厳を求める右派勢力から批判されたが、多くの国民はこれを受け入れ、歓迎した》(同)

 これほど「生者」にだけ阿(おも)った天皇万世一系に列してよいものか私は疑問に思う。確かに、天皇は「祈ること」が本務である。が、その対象は「死者」に向けてのものである。日本を築いて来られた先人に感謝し敬意を表するのが本来であって、「世界が平和で、人々が幸せでありまるように」などと神様にお願いごとをするのが天皇の務めであろうはずがない。

天皇は常に超階級的民族の良心として、民族精神の権威としてご行動になり、文化に産業に国交に余人の行ないえぬ天職を行ないたまい、かつ政治に対しても、常に恒に、深く、正しき永遠の理念的光明となって臨みたまい、大臣、議員等も一たび国体的心眼を開いて天皇のお姿を拝しさえすれば己らの政見政策政争を反省する機会を与えたまう、権威といますべきであろう》(里見岸雄天皇とは何か』(展転社)、p. 225)

 天皇は国民の「人気者」なのではない。新しい年号が発表されたからといって浮かれている場合ではないのである。背筋を正すべき存在、それが天皇というものでなければならない。

 が、政治は、皇室典範を無視してまで世論を後押しにし天皇の去就を決めてしまった。こんな恐ろしいことが罷(まか)り通ったのが平成という時代であった。

 何ら臆することなく天皇の去就を決定できるぐらいだから、天皇に対する畏怖畏敬の念が政治家そして国民に薄れていることは確かである。政治に緊迫感がないもの当然である。

 「けじめ」なき日本が今ここにある。【続】