保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

崩れ行く日本の教育(3) ~沈みゆく泥船~

《新学習指導要領は「主体的・対話的で深い学び」を掲げ、知識を活用した課題解決や新しい価値を見いだす能力の育成を重視している》(328日付京都新聞社説)

 「主体的で深い学び」などと出来もしない空言を掲げ、これに合わせて教育を振り回すようなことはもう止めるべきだ。私も授業は「一方通行」(one way)ではなく、「双方通行」(two-way)であるべきだと考える人間であるが、それはあくまでも「べき論」であって、これをすべての教師に強要してもうまくいくはずもない。

 「対話型授業」を成立させるためには、教師のみならず生徒も授業内容に熟達していなければならない。授業内容に対する一定の知識が必要であるし、対話型授業の長所、短所を理解した上で、その礼儀作法を弁(わきま)えていなければならない。闇雲にただ生徒の発言を奨励するだけでは「やかましい授業」になるだけだ。

 「対話型授業」を通して生徒に「主体性」を獲得させるということが「目標」として設定されるというのであれば問題はない。が、これが今すぐ対話型授業を実施して生徒に主体性を獲得させよとでも言うような話だとすれば、現在やれていることを破壊するだけである。

《先生にとっても、児童にとっても、教えることや学ぶことが増えるのは明らかだ。教員の負担増はもちろん、子どもの学びが上滑りにならないか、心配だ。

(中略)

問題は、ただでさえ忙しい教育現場が、こうした教科書を使いこなせるかどうかだ。

 教科書の課題を児童たちが調べ、議論し、自分の考えをまとめるのにはそれなりの時間が要る。先生の力量も問われる。余裕がないまま、教科書通りに取り組むだけでは、深い学びにつながらない》(同)

 私は「アクティブラーニング」否定論者である。生徒が積極的に学習することを否定するのではない。「アクティブラーニング」などと言って幼稚な授業形態を奨励するのはやめた方がよいということである。

 「アクティブラーニング」では、生徒の積極的な授業参加が促される。小グループを作って議論検討し、問題解決の糸口を生徒たちが自分たちで見出していく、などと言えば素晴らしいように聞こえるし、実際このような授業を見学すれば、かつてのような一方通行の「講義型授業」とは隔世の感があるに違いない。

 「アクティブラーニング」は「派手」である。が、この派手さに目を奪われてはならない。かつての講義型一方通行授業以上に教育効果が出ているのかどうかの冷静な見極めが必要である。

 「アクティブラーニング」はまだ緒(ちょ)に就いたばかりで、成果を問うのは早すぎると言われるのかもしれない。が、生徒活動に時間を割くがあまり、学習量はかつてと比して圧倒的に減少してしまっているのが実態ではないかと思われる。

 あっさり言えば、生徒を主人公とする形で時間を掛け、かつてはあっという間に通り過ぎていた初歩の学習内容に取り組んでいるわけであるが、このようなことを続けていれば、日本がガラパゴス化してしまって世界に置いて行かれるであろうことは火を見るより明らかである。

 にもかかわらず、これを改めるべきだとの声は聞かれない。もはや日本は沈みゆく泥船のようである。【了】