保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

崩れ行く日本の教育(2) ~的外れな教育改革~

《「ゆとり」批判に懲りて、教科書は検定のたびに厚くなってきた。今回もページ数は平均10%増えた。教員の世代交代を受け、経験が浅くても教えやすいように、授業のヒントを豊富に盛り込んだのも一因だ》(3月28日付朝日新聞社説)

 「ゆとり教育」の反動で教科書が改訂のたびに分厚くなってきていると言われているが、実際にどのような内容が追加されているのかは詳らかではないので措(お)く。

 問題は、<教員の世代交代を受け、経験が浅くても教えやすいように、授業のヒントを豊富に盛り込んだ>という部分である。<教員の世代交代>がうまくいっていないというのがまず問題である。ベテランが若手の良き手本となり指導する体制が築かれていなければ、いくら教科書に<授業のヒント>なるものを盛り込んだとしても付け焼刃にしかならず、生徒の心を揺さぶるような授業とはなり得ない。

《だがお膳立てが過ぎると、子どもは自分で考えなくなる》(同)

 そもそも<お膳立て>が過ぎようが過ぎまいが生徒が自ら進んで考えるなどということは期待できない。

《先生は先生で、全部をこなそうとすれば表面をなでるだけの授業になり、指導要領が掲げる「主体的で深い」学びから遠くなるという矛盾に陥ってしまう》(同)

 今の教科書には全部をやり切ることができないほど多くの指導内容が盛り込まれているということは事実であろうと思われる。その上、「アクティブラーニング」ということで、グループ学習だの発表だのといった生徒の活動を重視しようとすれば、圧倒的に時間が足りなくなってしまう。

「覚える」ことから「考える」ことに重心を移そうとした「ゆとり教育」は明らかに失敗であった。にもかかわらず、目先を変え今度は「アクティブラーニング」などと言って主体的で深く学ばせようというのだから「いやはや」である。その上、教科書の分量が増えたとあってはもう教師はお手上げである。

《質と量の二兎(にと)を追うには限界がある。新たな教科書の可能性を確かめながら、求める学習量が適切かを見きわめ、是正を図ることも必要ではないか》(同)

 質と量の二兎を追うから問題なのではない。教育目標が判然としていないのが最大の問題なのである。将来どういった人材が要るのか、そのことがたとえ漠然とであれなければ教育内容が決まるわけがない。

 「グローバリズム」に疑問符が付けられている時代状況の中で、グローバル人材を増やそうと英語のコミュニケーション能力を高めるために、小学校から英語を始めるだの、大学入試にスピーキングテストを入れるだのといった「改革」は「的外れ」と言わざるを得ない【続】