保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

象徴天皇の在り方を模索するという錯誤について(2) ~未だ直らぬ朝日の歪んだ歴史眼~

《この間、天皇や皇室をめぐる議論は活性化し、様々な角度から事実の解明や分析があった。

 終身在位など当然視されてきた事柄の多くは、明治期に作られたものであること。歴史を顧みると、旧憲法下の神権天皇制の異様さが際立つこと。戦犯裁判の判決を受け入れ、戦争の責任を認めることによって日本は国際社会への復帰を果たし、天皇制も存続し得たこと――》(4月30日付朝日新聞社説)

 確かに旧皇室典範は明治期に書かれたものである。が、その中身は優れて伝統を踏まえたものと言うべきである。例えば、譲位の問題にしても、南北朝に頂点を見る権力闘争に天皇が巻き込まれるのを避けるべく譲位がなかった当初の時代に歴史の針を巻き戻そうとしたものであった。

 これは一つの見識であり、これと違った見識を示すことも有り得ることである。が、それまでまったく議論の俎上にさえ上らなかったであろうことを、今上天皇が退位を口にされた途端、特例だなどと付け焼刃で皇室典範を変更し退位を認めるかのようなやり方はやはりあまりにも政治的に過ぎると言わざるを得ない。

 また、朝日社説子は<旧憲法下の神権天皇制の異様さが際立つ>と言うが、そもそも<神権天皇制>なる特殊用語を持ち出すこと自体が<異様>である。

《ホブズボウムなどがいうところの「創られた伝統」としての〈近代〉天皇制が〈神権〉天皇制であったところに、明治維新以降のわが国の「近代化」が有する歴史的特性の一端があらわれている》(角田猛之「神権天皇制と象徴天皇制における〈制度的断絶性と意 識的連続性〉」:關西大學法學論集, 56(2-3): 626)

 が、大日本帝国憲法によって規定された「天皇制」は「伝統」でも何でもない。確かに、天皇の存在は歴史伝統的なものであるけれども、「天皇大権」といったものは政治的なものでしかなく伝統的なものではない。にもかかわらず、これを「創られた伝統」などといって批判するのは自作自演の批判でしかない。

 最後の<戦犯裁判の判決を受け入れ、戦争の責任を認めることによって日本は国際社会への復帰を果たし>というのも、しばしば反日左翼が持ち出すでたらめである。サンフランシスコ講和条約は、戦犯裁判の判決を蒸し返さないことを言っただけで、決して戦争責任を認めたものではない。そんなことは条文をちゃんと読めば誰にでも分かることである。

《次代の皇室像を探るうえでも、歴史に学び、正しい情報を持ち、必要に応じて原点に立ち返って検討する姿勢は欠かせない》(同)

 これはその通りなのであるが、左翼思想に傾注し歴史を捻じ曲げてきた朝日新聞が、どのような口をしてこれを言うのか私には不思議でならない。【続】