杉田水脈論文が問題となった際、私は『新潮45』10月号の特集「そんなにおかしいか『杉田水脈(みお)』論文」に掲載された小川榮太郎「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」を論評に値しないものとして排除した。
が、中島岳志・東京工業大学教授が重要な論点を提示しているので、今回は遅ればせながらそのことに触れてみたいと思う。
《小川はLGBTの問題を「国家や政治が反応すべき主題などではない」とし、「文学的な、つまり個人的、人生的な主題である」としている。そして、「政治は個人の『生きづらさ』『直面する困難』という名の『主観』を救えない」、「いや、救ってはならない」と述べ、「政治の役割は生命、財産、安全のような、人生の前提となる『条件』を不当な暴力から守る事にある」としている》(中島岳志「LGBT問題は文学か政治か 法制度で困難は解消」:10月24日付東京新聞「論壇時評」)
中島教授は小川氏に反論する。
《LGBT問題は個人の主観の問題と言い切れるのか。文学だけが担うべき領域なのか。
断じて違う。LGBT問題に取り組む人たちの多くは、政治的課題としての法制度の整備を要求しているのだ。政治に対して「生きづらさ」そのものの救済を求めているのではない。「人生の前提となる『条件』」の整備を求めているのである》(同)
ここで言う<人生の前提となる『条件』>とは、例えば、「同性婚」ということになるのだろうが、実は、「同性婚」に対する障害は保守の側だけでなく左派の側にもある。その1つは憲法問題である。
第24条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
つまり、日本国憲法は同性による婚姻を想定しておらず、同性婚を法的に認めようとすれば憲法を改正することが必要となる。が、これは一字一句たりとも憲法を改正したくないガチガチの護憲派と相容れない。
一方で、24条は同性婚を禁じていないという学者もいる。木村草太氏は言う。
《たしかに24条には「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立する」と書いてあります。しかし、この条文が同性婚を否定していると解釈する人は、ここで言う「婚姻」の定義を明確にしていません。その定義が同性婚を否定しているかどうか判断するために重要な要素であるにも関わらず、です。婚姻とは何を指すのかを明確にする必要があります。
24条で言う「婚姻」にもしも同性婚が含まれるとすると、「同性婚が両性の合意によって成立する」というおかしな条文になってしまいます。ですから「ここで言う婚姻は異性婚という意味しかない」と解釈せざるをえないのです。
つまり24条は「異性婚」は両性の合意のみに基づいて成立するという意味なのです。ここに解釈の余地はありません。そうである以上、同性婚について禁止した条文ではないということです》(宇田川しい「『同性婚と国民の権利』憲法学者・木村草太さんは指摘する。「本当に困っていることを、きちんと言えばいい」」:HUFFPOST:2017年05月02日22時22分)
が、これでは、同性婚は認めたいが憲法は改正したくないという苦し紛れの屁理屈にしか聞こえないだろう。安倍晋三首相の解釈改憲はボロカスに否定しながら、自分たちの解釈改憲は好しでは虫が良過ぎる。【続】