保守論客の独り言

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未だに東京裁判を擁護する毎日新聞(2)~パール判事の「正論」~

東京裁判は11名の判事のうち1人を除いて他はすべて国際法の素人であった。さらに言えば、裁判の公平性を保つためには判事は第三者に委ねるべきであるが、東京裁判はすべての判事が戦勝国側の人間で構成されていた。

 唯一の専門家であるインドのパール判事は事後法(事件が起こった後に作られた法律)によって裁くことを非難した。

《勝者によって今日与えられた犯罪の定義に従っていわゆる裁判を行なうことは敗戦者を即時殺戮(さつりく)した昔とわれわれの時代との間に横たわるところの数世紀にわたる文明を抹殺するものである。かようにして定められた法律に照らして行なわれる裁判は、復讐の欲望を満たすために、法律的手続を踏んでいるようなふりをするものにはかならない。それはいやしくも正義の観念とは全然合致しないものである。

かような裁判を行なうとすれば、本件において見るような裁判所の設立は、法律的事項というよりも、むしろ政治的事項、すなわち本質的には政治的な目的に対して、右のようにして司法的外貌を冠せたものである、という感じを与えるかもしれないし、またそう解釈されても、それはきわめて当然である。

儀式化された復讐のもたらすところのものは、単に瞬時の満足に過ぎないばかりでなく、窮極的には後悔を伴うことはほとんど必至である。しかし国際関係においては秩序と節度の再確立に実質的に寄与するものは、真の法律的手続による法の擁護以外にあり得ないのである》(『共同研究 パール判決書』(東京裁判刊行会)、p.166)

 まさに「正論」であるが、「正論」が通用しないのが政治の世界である。パール判事が書いた「判決書」は多勢に無勢でしかなかった。

 が、「正論」であるがゆえに、パール判決書と軌を一にする意見は後を絶たない。「ソ連封じ込め」を立案したことで有名な、米国務省政策企画部初代部長のジョージ・ケナンは次のように主張した。

《このような法手続きの基盤になるような法律はどこにもない。戦時中に捕虜や非戦闘員に対する虐待を禁止する人道的な法はある。B級戦犯の裁判はそれに則っている。しかし公僕として個人が国家のためにする仕事について国際的な犯罪はない。国家自身はその政策に責任がある。戦争の勝ち負けが国家の裁判である。日本の場合は、敗戦の結果として加えられた災害を通じて、その裁判はなされている。

といっても、これは勝利者が敗戦国の指導者を個人的に制裁する権利がないというのではない。しかし、そういう制裁は戦争行為の一部としてなされるべきであり、正義と関係ない。またそういう制裁をいかさまな法手続きで装飾するべきでない》(Foreign Relations of the United States, p. 718:片岡鉄哉『さらば吉田茂』(文藝春秋)、p. 83)

 戦争行為として日本の指導者を処刑するなら分かるが、これを裁判を偽装して正義のごとく行うのは間違っていると言っているのである。【続】