保守論客の独り言

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孔子廟判決と政教分離について(2) ~国家の非宗教性~

《裁判でも原告と市側は儒教が宗教か否かについて激しく争っていた。にもかかわらず、最高裁は今回、儒教一般についての評価や孔子廟を管理する崇聖会が宗教団体かどうかの判断はしなかった。

 定説のない宗教論争に立ち入らず、問題の核心部分から逃げた印象は否めない》(2月26日付中國新聞社説)

 おそらく<儒教が宗教か否か>を裁判で言い争っても埒(らち)は明くまい。が、儒教が宗教でないとすれば、<政教分離>問題と成り様もないわけだから、この<宗教論争>から逃げて「違憲」とだけすることには疑問もある。

《裁判官15人のうち唯一、反対意見を付けた林景一裁判官は、孔子廟の宗教性を「習俗化していて希薄」とした上で、違憲判断を「牛刀をもって鶏を割く」ようなものだと断じた。政教分離規定を過度に拡張すれば「歴史研究・文化活動等にかかる公的支援の萎縮」をもたらしかねないと警鐘を鳴らす。

 最高裁判決のように建物の外観や行事で宗教性を認めるのであれば、復元された首里城での儀礼や、平和の礎など慰霊施設での行事さえも憲法に抵触しかねない》(2月26日付琉球新報社説)

 ここで簡単に<政教分離>とは何かを確認しておこう。奇異に感じられるかもしれないが、実は日本国憲法に<政教分離>という言葉は出て来ない。間接的に<政教分離>を規定しているとされているのが、日本国憲法第20条1項後段、3項ならびに第89条である。

第20条

1 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

《信敎の自由の保障を完全にするためには、さらにすすんで、國家があらゆる宗敎から絕緣し、すべての宗敎に對して中立的な立場に立つこと、すなわち、宗敎を純然たる「わたくしごと」にすることが要請される。これが國家の非宗敎性(laïcité)の原則または國敎分離の原則といわれるものである。

國家がある特定の宗敎を特に優遇することは、それ以外の宗敎の自由を抑える結果になるが、國家がすべての宗敎を等しく優遇することも、國家がそれによって無宗敎の自由を抑える結果になる點で、やはり宗敎の自由に反すると考えられるのである。本條がかような國家の非宗敎性を要請することは、第1項後段や、第3項からも、明らかである》(宮澤俊義『法律學体系 コンメンタール篇 I 日本國憲法』、p. 240)

第89条

公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。​【続】​