保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

未だに東京裁判を擁護する毎日新聞(1)~自己中心的偏説~

70年前の今日1948(昭和23)年11月12日は、敗戦の翌年1946年(昭和21年)5月3日から始まった極東国際軍事裁判東京裁判)が結審した日である。

《戦前日本を肯定的にとらえたがる民族主義的思考の人びとは「自虐史観をもたらした」と東京裁判を攻撃する。

 特に自らもA級戦犯の容疑者となった岸信介元首相は、裁判について「絶対権力を用いた“ショー”だった」「『文明』の名に汚点を残したという記録に過ぎない」などと切り捨てている(「岸信介回顧録」)。

 こうした右派の怨念(おんねん)が靖国神社へのA級戦犯の合祀(ごうし)、それに伴う天皇の参拝見送り、首相の参拝に対する近隣諸国の反発へとつながったのは周知の通りだ。一部の勢力にとっては、東京裁判への憎悪が憲法改正運動の動機付けにもなっている》(11月11日付毎日新聞社説)

 こういう書き方は公平ではない。東京裁判を擁護する自分たちが正しくて、これに異を唱える連中が間違っているとの決め付けがここにはある。が、先に確認すべきは東京裁判の正当性の是非である。

《日本は東京裁判を受諾することでサンフランシスコ講和条約を各国と結び、主権を回復したというのが歴史的な事実だ。

 もしもこれを否定するなら、戦後秩序とりわけ日米安保体制の否定に結びつく》(同)

 が、日本は東京裁判を受諾したのではなく、その判決を受諾したのである。もっと言えば、東京裁判で描かれた歴史を承認したのではなく、判決に対する異議申し立てを行わないことを約束したに過ぎない。簡単に言えば、将来、東京裁判が誤てる裁判であったということになれば、その判決に正当性がなくなり、例えば死刑執行は「殺人罪」に問われることになりかねない。それを防いだに過ぎない。

 それを<もしもこれを否定するなら、戦後秩序とりわけ日米安保体制の否定に結びつく>などと米国の威を借りて脅迫するのは卑怯千万。自分たちの考えに合っていることは肯定し、合わないことは否定する。そこには客観的な正否の判断が抜け落ちている。

《独自に戦争責任を総括する厳しさを欠いたまま、ただ感情的に「勝者による一方的報復」と言い立てても世界には通用しない》(同)

 総括すべきは<戦争責任>ではなく<戦争>そのものである。かの大戦を総括する中で責任は奈辺にあるのかを考えるというのなら分かるが、戦争自体の総括がなされぬまま戦争責任を総括するという意味が分からない。

 通用しないのはむしろ社説子の方であることが分かっていない。否、分かるのが拙(まず)いことが分かっているから分からないことにしているのではないかとは思われもするけれども、東京裁判が裁判の体(てい)をなさない「復讐劇」であり「私刑」(リンチ)に等しいものであったことは、法学的には否定しようのないことである。【続】