保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

政治評論家の目は節穴か

『女性自身』2021年9月21日号に「評論家が“ポスト菅”を辛口採点!」と題した記事が出た。

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 注目の高市早苗女史の採点が異様に低い。テレビでもお馴染みの有馬晴海氏は、高市女史を

「彼女はフェミニストにはほど遠く、総裁となっても、旧来の男性中心的な自民党を再構築するだけでしょう」(『女性自身』2021/09/07 15:50

と酷評している。

 が、有馬氏は<フェミニスト>の意味を取り違えてはいないか。LONGMAN は次のように定義している。

feminist: someone who supports the idea that women should have the same rights and opportunities as menフェミニスト:女性が男性と同等の権利や機会を持つべきだという考えを支持する人)

 高市女史は「男女平等」を目指す共産主義者ではない。当たり前だが、日本の宰相に共産主義者が就くことなど有り得ない。高市女史がフェミニストに程遠いということはむしろ評価されるべきことである。この辺りの判断基準が狂ってる。

 <旧来の男性中心的な自民党>というのも分からない。有馬氏は「これからは男女分け隔ての無い自民党を作らねばならない」というお考えなのだろうか。

 「今の日本の政治は女性が虐(しいた)げられている」などというのは偏狭な見方に過ぎない。能力のある女性政治家が抑え込まれているわけではない。有能な女性政治家がいないだけである。ここをごちゃ混ぜにして批判するのが共産主義者の遣り口である。

 伊藤惇夫氏も頂けない。一体何をもって高市女史を<保守強硬派>に分類しているのであろうか。高市女史は<保守派>ではあっても<強硬派>ではない。ただ自らの信念に忠実なだけである。自ら思うところを枉(ま)げない。これを<強硬派>というのはちょっと違うのではないか。

 成程、高市女史は周りから如何なる圧力を受けようとも「靖国参拝」をやめない。が、かの戦争に散華(さんげ)した人達に感謝し哀悼の意を表するのは国民を代表する政治家として当たり前のことである。この自然の感情が周りの雑音によって歪められ、参拝しないことの方が余程おかしいことに気付くべきだ。

 伊藤氏は、高市女史が憲法問題で好き勝手に発言したと批判する。が、これはむしろ褒められるべきことであって、決して批判されるようなことではない。高市女史が憲法問題のまとめ役を担っていたのなら自分の意見を押し留めることも必要であったろうが、そうではない。現行憲法のどこにどのような問題があり、それをどのような手筈で改正するのかということに様々な見方があることの方が健全である。憲法を改正することに後ろ向きであることが憲法を時代遅れの存在にしてきたと言うべきではないか。

 そもそも自民党総裁すなわち日本の首相を選ぶのにコロナ対応だけで判断しようとすること自体が異様である。コロナ対応は喫緊の課題であるかもしれないが、政治はもっと大きな視野を持つべきである。