自民党「性的指向・性自認に関する特命委員会」の稲田朋美委員長が東京新聞のインタビューに応えている。
―法案のどういう点に反発が出たのでしょう。
議員立法なので、与野党の合意が必要です。自民党案を1ミリも変えないというのはできなかったので、法案の目的と基本理念に「差別は許されないものであるとの認識の下」と加え、「性自認」の用語を使いつつ、自民党の(従来示してきた「性同一性」の)定義を入れるなど、工夫して与野党合意ができました。非常に狭い道を、何とか合意にたどり着けたという気持ちでした。
しかし、修正点について慎重な意見が相次ぎました。「この文言が活動家に利用される」とか「差別禁止法になる」「人権擁護法案と一緒だ」と不安の声が湧き起こってしまったのです。(東京新聞2021年6月19日 06時00分)
<差別は許されない>のは至極当然のことのように思われるかもしれないけれども、これは本来「道徳」の次元に属するものであって、これを「法律」の次元にまで引き上げるのには少なからず無理がある。まして<差別>とは何かが定義されていなければ尚更のことである。
「人権擁護法案」の際には、稲田女史自身次のように反対していた。
「(法案は)人権という美名の下に、もろ刃の剣になる可能性、危険性がある」(平成19年12月の自民党人権問題調査会)
「不当な申し立てをされた者の視点も考えてほしい。政治活動、表現の自由に対する重大な危険だ。民主主義の根幹にかかわる」(20年3月、同)
「法律をつくることによる弊害が大きい。こういった法律をつくる余裕がいったいわが党にあるのか」(20年5月、同)
「率直に意見を言う愛すべき政治家の活動すら、この法案が通れば非常に危い」(20年6月、同)
(【阿比留瑠比の極言御免】「人権擁護法案の愚 繰り返すな」:5月27日付産經新聞5面)
だから、
《同様な危険性と弊害がある2つの法案に対し、稲田氏の見解がここまで違う理由が理解できない。いつどうして宗旨変えしたのか》(同)
と阿比留氏が訝(いぶか)るのも無理はないのである。
差別とは「差を付け別ける」ことである。勿論、これが不当なものであれば許されるべきではないにしても、差別全般が許されないとなると悪平等の平等主義に陥るだけである。区別、弁別、識別、峻別といったものをすべて<差別>だなどと大掴みになってしまえば、<差別は許されない>としてあらゆる「差異」が指弾され裁かれかねない。
「差別がない世界」とは、平等という妄想に憑(と)りつかれた幻の世界である。【続】