保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

「ゼロコロナ病」について(1) ~尾身独尊では危うい~

京都大学藤井聡教授は言う。

菅義偉首相の4度目の緊急事態宣言の発出を耳にしたとき、啞然(あぜん)とした心持ちとなった国民は多かろうと思う。そもそも、「五輪を絶対にやる」という菅首相の方針から言うなら、軽々なる緊急事態宣言などあり得ないはずだったからだ》(「『ゼロコロナ』という病の処方箋」:7月19日付産經新聞「正論」)

 五輪をやるなら緊急事態を宣言することは控える、逆に、緊急事態を宣言するのなら五輪開催は諦めるというのが筋である。が、菅首相は、緊急事態宣言下で五輪を開催する「矛盾」を選択した。どうしてこのような選択をしたのか不可思議である。

《しかも、緊急事態の宣言の基準が「恣意(しい)的」であることも明白だった。今回の緊急事態宣言は、感染拡大の初期的な段階で極めて予防的に発出されたものだったが、これがこれまでの3回の宣言の基準とは全く異なっていたのだった。しかも、高齢者のワクチン接種が進み、今後、「重症者数」が減少し、医療崩壊リスクは大幅に低減するであろうと見込まれてすらいた》(同)

 重症者数、死亡者数の減少が見込まれる中で、これまでの緊急事態宣言と違い、感染拡大前に「先手」で緊急事態宣言を行うのは、高齢者へのワクチン接種の意味を否定することにすらなりかねない。

《今回の緊急事態宣言は「緊急事態でない状況」だったわけであり、だから多くの国民は、「なるほど…菅首相は五輪開催中の感染拡大を恐れ、それを抑え込みたいという『政治的意図』のために国民の行動を規制するという暴挙に出たのだろう」と解釈したのである。結果、多くの国民はそんな菅氏の「ご都合主義」に辟易(へきえき)し、大きな嫌悪の念を向け始めている》(同)

 「人流」を抑制し感染拡大を抑え込もうとする遣り方はもはや通用しなくなっている。人は生活しなければならない。我慢するにも限界がある。

 否、人流を抑えれば感染拡大しないということが明確であるならまだしも、効果のほどは定かではないが、取り敢えず人流を抑えておこうというような遣り方に人々が付いてくるわけがない。

《なぜ、現政府はこうした正当化し難い宣言を発出したのだろうか。その答えには様々なものを挙げることができようが、最も本質的なものは、政府とりわけ尾身茂氏を中心とした政府系の専門家たちが今、「ゼロコロナ」を志向しているからだ、というものだ》(同)

 政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会の尾身茂会長は感染症という極狭い領域からしか物事を見ていない。が、政治にはもっと多角的判断が要求される。感染拡大を怖れるがあまり、ただ経済活動を止めてしまっては人は生きていけない。

 コロナという身体的な問題だけでなく、活動自粛に伴う精神的な問題にも配慮が必要である。尾身氏が主張する「ゼロコロナ」に抑え込まれてしまっていては日本社会は失速してしまいかねない。

《たくさんのよいことが同時には実現できないこと、あるものを実現するためには他のものが犠牲にされるということは、たくさんの要素を考慮して初めてわかるものであるが、専門家の目にはそういうことはなかなか理解できない。そういう理解は、苦心に苦心を重ねた知的努力を経ることでようやく得られるものでしかなく、たくさんの人々が苦心や努力を捧げている目標を、より広い視野から見つめ、その重要性を、目先の利益とかけ離れているがゆえにもっと関心が払われない他の目標と比較して判断する、という苦しい努めさえ要求されるのである》(F・A・ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 64【続】