保守論客の独り言

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孔子廟判決と政教分離について(1) ~マルクス宗教廃止の翳(かげ)~

儒教の祖である孔子を祭る「孔子廟(びょう)」の敷地を那覇市が無償で使わせるのは、憲法政教分離原則に違反すると、最高裁大法廷が判断した。

 憲法は「国及びその機関は、いかなる宗教的活動もしてはならない」と定める。目的は、国家と宗教の分離を制度として保障し、一人ひとりの信教の自由を守ることにあるとされる。

 政府や自治体が宗教性のある施設などに対し、安易に便宜や恩恵を与えるのは、厳に慎まなければならない。判決はこの基本姿勢を明確に打ち出したものであり、評価したい》(2月26日付朝日新聞社説)

 が、私には違和感がある。

政教分離を巡る最高裁判決はこれまで神道が中心で、儒教は初めてだ。最高裁は、供物を並べて孔子の霊を迎える年1回の行事である「釋奠祭禮(せきてんさいれい)」の様子から、「宗教性を肯定でき、程度も軽微ではない」と結論付けた。

 だが、教義に基づく布教行為が孔子廟で行われているわけではない。一般社団法人の久米崇聖会が宗教団体なのかも、最高裁は判断を示していない。

 儒教の教えや祖先崇拝は、琉球・沖縄の歴史の中で思想や教育、習俗として定着してきた。宗教というには違和感がある。釋奠祭禮の運営も、久米三十六姓をルーツとする門中(血縁集団)が久米村の歴史を継承する中で、年中行事を再現・保存するという文化、教育的な側面を持つ》(2月26日付琉球新報社説)

といった反論があってもよさそうなところでもあるが、朝日社説にはそれもない。

政教分離憲法に規定された背景には、戦前の日本が神道を事実上の国教として優遇・利用したことへの反省がある。信仰の強要や他宗教の弾圧が繰り返され、ついに敗戦に至った》(同、朝日社説)

 国民の<反省>というよりも、GHQによる神道の抑え込みと言うべきだろうが、今回は戦前への回帰が疑われるような事案ではない。

《こうした歴史から、神社や神道との関連が問われる事例が多かったが、他の宗教的活動にも同様のけじめが求められるのは言うまでもない》(同)

 非常に潔(いさぎよ)い考えであるが、ここまでくると逆に戦前の反省以上のものがあるのではないかと逆に不安になる。ひょっとして、マルクスよろしく政治から宗教を一掃しようなどという阿漕(あこぎ)なことを考えたりしてはいないか、という疑念が私の脳裏を掠(かす)めるのである。

《宗教は窮迫した生き物のうめき声であり、それは精神なき状態の精神であるように、無情な世界の心情である。それは国民の阿片(アヘン)である。

 国民の幻覚の幸福としての宗教の廃止は国民の現実的な幸福の要求である。国民の状態に関して幻覚を捨てるよう要求することは、幻覚を必要とする状態をやめるよう要求することである》(カール・マルクスヘーゲル法哲学批判序説』(Wikisource))​【続】​