保守論客の独り言

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古文・漢文オワコン論について(1) ~<使わない>から必要ないは短絡~

《元2ちゃんねる管理人で実業家のひろゆき氏がブチ上げた古文・漢文「オワコン論」がネット上で大きな話題となっている》(東スポWeb 2/22(月) 11:57 配信)

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 が、高校の情報という科目で既にPC学習は行っているし、2022年から家庭科で「投資信託」を学ぶことにもなっている。

 よって、古文・漢文は<オワコン>(終わったコンテンツ)なのか、つまり、学習する必要がないのかどうかに焦点を当てて考えることにしよう。

 <使わない>から学ぶ必要がないというのは短絡である。そんなことを言い出せば、高等教育のほとんどは学ぶ必要がないということにもなりかねない。実際、例えば、数学の2次関数なんて日常生活で使うことなどまずないだろう。

 が、<使う>とはどういうことなのかを改めて考えてみればそれほど簡単な話ではない。

 世の中には、実際に<2次関数>を使う仕事に就いている人達もいるだろう。そういった仕事に就く可能性がある学生が<2次関数>を学ばなければ、将来の可能性を狭めることになってしまう。同様のことが、他の科目でも言える。つまり、学生は将来必要だと思われないことでも、将来どのような仕事に就くのかが決まっていなければ、職業選択の可能性を豊かにするために基礎的事項を万遍なく学習するようになっているのである。

 逆に言えば、必要ない(と思われる)から、あれもやらない、これもやらないでは、実際に職業の選択を行う際、やれることが限られてしまい、好きな仕事を選ぶことが出来なくなってしまうかもしれないのである。

 少し視点を変えてみよう。具体的に使う可能性が低いことであっても抽象的には必要だということも有り得るということである。例えば、<2次関数>の問題が解けるようになっても実際に使わないのであれば大して意味はない。が、課題から逃げないという「姿勢」や課題に真っ直ぐ取り組む「態度」、課題に取り組むことによって鍛えられた「忍耐力」といったものは、多くの仕事に共通する必要事項であろうと思われる。

 また、課題を突破した際に得られる「達成感」は自己肯定意識を高めることにも繋がるであろう。将来学生時代を振り返ったとき、課題と真摯(しんし)に取り組んだことや、課題と悪戦苦闘した時間を思い出すことも良き想い出となるであろう。

 何よりこういった体験が日本人としての「通過儀礼」となっていることが重要である。<2次関数>と取り組み格闘した経験は、時代や場所が変われど、日本人なら誰もが持ち合わせているものである。こういった共通経験の積み重ねが日本人の連帯意識を高め、そして相互信頼の基礎となっているのである。【続】