保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

「国際女性デー」について(3) ~日本文化における役割分担~

《まずは政治分野からである。国民の半数を占める女性の民意を反映させるために、政治家の半数は女性であることが自然だ。それが、社会の変化を促すことにつながる》(3月8日付毎日新聞社説)

 何を根拠に政治家の半数が女性であることが<自然>というのであろうか。そもそも<女性の民意>って何だ。女性は虐(しいた)げられているから男女平等にしなければならない、そういう「僻(ひが)み」が<女性の民意>というものなのか。

 昨今LGBT運動が盛んな中、身体的男女の別に拘(こだわ)ることにどれだけの意味があるのか。

 男は男らしく、女は女らしくという「男女の別」の考え方があるのなら、男性的視点と女性的視点を平等に政治に反映させるために政治家の数を男女平等にするということも必要となるのかもしれない。が、今はもうそのような時代ではない。男らしく、女らしくなどという考え方は古臭過ぎて話にならない、と多くの人が思っている。

 男女の違いに拘れと言っているのか拘るなと言っているのか。ご都合主義に見えてしまうのは私だけであろうか。

《企業の取り組みも欠かせない。女性の登用が生産性や利益の向上につながるのは、世界の常識になっている。後押しするため、行政の施策も強化しなければならない》(同)

 <女性の登用が(企業の)生産性や利益の向上につながる>というのは相当怪しい話である。女性も千差万別である。したがって、女性を登用すれば必ず生産性や利益の向上につながるなどということはない。

 生産性や利益の向上につながるような能力の高い女性がどれくらい日本に残存しているというのか。つまり、女性を登用するよりも先に女性の能力向上を考えるべきではないだろうか。

 が、ここには2つ問題がある。おそらく能力の高い女性ほど晩婚化となり、少子高齢化が進むのではないかということが1つ、もう1つは、これまで女性が担ってきた家庭や地域社会などがより一層脆弱(ぜいじゃく)化してしまうのではないかということである。

 単純化して言うのは要らぬ誤解を招きかねないが、敢えて言えば、男は外で働き、女は内で働くということは日本の文化における役割分担としてあながち間違ってはいないように思うのである。男も女も外で働き、内でも働く。このような遣り方では仕事の高度化は見込めない、否、凡俗化を招くに違いない。

 私は、家庭や地域共同体をもっと安定化し活性化することが日々の社会問題を、事が大きくなる前に摘み取ることが出来るのではないかと思っている。そのためには家庭を守る女性の力が欠かせない。【続】