保守論客の独り言

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後藤新平の「政治倫理化運動」について(1) ~今の国会は学生の擬国会~

後藤新平東北帝国大学で行った講演をまとめた『国難来(こくなんきたる)』(藤原書店)がおよそ1世紀を経て復刻された。

《およそ百年前、後藤新平による「国難来たる」との呼びかけは、まるで現代日本に警告しているかのように聞こえる。関東大震災から半年後の大正13(1924)年3月、日本近代化に尽力した後藤は、国難とは鎌倉時代元寇や、江戸湾に現れた黒船のような「惰眠を醒ます挙国緊張」ではなく、むしろ、ひそかに忍び寄る目に見えない危機であるとして2つの要素をあげた。

 1つは、「平和の仮面をかぶって、ぢりぢり寄せ来る外患」であり、もう1つは「美装に隠れ、国民の肉心をむしばむ内憂」であると見抜いた。波濤を越えてくる元寇や黒煙をはき出す黒船は、人々が「自ずと備えの大決心」をするが、平和の仮面をかぶって寄せ来る奸賊は「人これに気づかないが故に備えず」と注意を喚起した》(湯浅博「後藤新平の『国難来』再来 政治の体たらくを憂う」:『正論 1月号』:2019年12月05日 03:00)

 その後、後藤新平は「政治倫理化運動」に立ち上がる。その第一声、大正15年4月20日、東京青山会館での演説速記録『政治の倫理化』を見てみよう。

《最近のごとく黨(党)派抗爭の極、大日本主義を失って小日本主義に陷り、國運に副(そ)うて國策を樹(た)つることをせず、小さい當座勘定に捉われて總勘定を忘れて居(お)つては、國家を救うべからざる窮境に陷れることなきを保(ほ)せず、是は不肖一人(いちにん)の憂いにあらずして、多くの人も亦(また)此(この)憂を懷(いだ)いて居るに違いないと、確信いたして居るのであります》(後藤新平『政治の倫理化』(大日本雄弁会)、pp. 11-12)

 ここのところの「森友・加計・桜」騒動と重なって見える人も少なくないだろう。

《諸君は政治家が此大問題を放擲(はうてき)して議會内の揚げ足取りに沒頭し、學生の擬國會に於ける如く問答の當否巧拙などの末技に耽つて其日を暮して居つて可なりとするや否や》(同、pp. 21-22)

 <揚げ足取り>に終始する今の国会は、本来あるべき国会の姿ではなく、「擬国会」すなわち「国会擬(もど)き」であるというのは同感である。

《かゝる官僚的小刀細工や黨派間醜惡の爬羅剔抉(はらてきけつ)に專念して自ら恥ぢざるの狀を諸君は無關心に看過せらるべきであるか?。是は一方政黨が官僚化すると共に、他方官僚が政黨化した爲に、官界には忠純なる官僚氣分は消え去り、黨派内には黨紀の紊亂(ぶんらん)を肅正(しゅくせい)する公黨的良心消摩し去り、天下國家を治むるの基礎たる大國策は政黨にも官界にも無くなつて了(しま)つたからである》(同、p. 21)

 このまま大本(おおもと)を忘れ枝葉末節に拘(こだわ)り続ければどうなるか言うまでもないだろう。【続】