《人々の知る権利に応える。その決意を新たにしたい》(10月17日付北海道新聞社説)
これは単なる綺麗事である。北海道社説子の言う<人々>とは、新聞の色からしておそらくは「護憲派」のことであろうし、<知る権利に応える>とはその「護憲派」が欲しがっている情報を提供するということに過ぎないのだと思われる。
《今年の代表標語は「新聞を開いて僕は世界を知った」だ。作者は中学生で、「世界には戦争で勉強する機会のない子がいることを新聞で初めて知った」という。
遠く離れた国の出来事でも、迅速かつ正確に読者に伝えることが求められている。同時に、身近で起きていることを詳しく伝えることも新聞の使命と考える》(同)
戦下で勉強どころでない子供たちが世界にいることを知らぬ中学生がいるのは平和な日本では仕方のないことであろうけれども、これが今年の新聞週間の代表標語となるところが「平和呆け」を象徴しているのだと思われる。
また、<遠く離れた国の出来事でも、迅速かつ正確に読者に伝えることが求められている>というのは言い過ぎである。誰もそんなことを北海道新聞に求めてはいない。世界の出来事など星の数ほどあり、それを取捨選択して<迅速かつ正確に読者に伝えること>など一地方紙にできるはずもない。
<身近で起きていることを詳しく伝えることも新聞の使命>なのではない。身近で起きていることを詳しく伝えることこそが使命のはずである。また、ただ詳しくではなく、「公平公正」にということが重要である。
《人々が情報を広く共有することは、民主主義に不可欠だろう》(同)
これはまさにその通りである。だから問題なのである。今の新聞は偏った情報を流し世論誘導を図ろうとする浅知恵が過ぎる。
《広い視野を持ち、事実を深く掘り下げる努力を続け、豊かな社会づくりに貢献したい》(同)
これほど言っていることとやっていることが「乖離」(かいり)していることはない。
《表現の自由を抑え込もうとする力には、しっかり対峙(たいじ)する。
国際芸術祭の「表現の不自由展」に対する圧力は、自らと異なる意見を排除しようとする社会の閉塞(へいそく)感と無関係ではあるまい》(同)
<表現の自由を抑え込もうとする力>の最大のものは「公序良俗」という暗黙の社会秩序である。これに対峙するというのはまさに「革命家」の謂(いい)である。公序良俗に反したものを「アート」と称して公的機関が公的施設を使って公開するというのは許されるものではない。
勿論、何をもって公序良俗と呼ぶのかについての議論はあってよい。が、北海道社説子の物言いは、「表現の自由」は無制限の自由であるかのような言い分のようにしか聞こえない。【続】