保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

頓珍漢な読売元日社説(1) ~典型的な戦後日本平和主義~

「一年の計は元旦にあり」と言う。元日社説も一年を方向付けるという意味で非常に重要なもののはずであるが、読売社説の落ち込みようは酷い。

 読売新聞と言えば、日本最大の購読者数を誇る大新聞である。が、最近の左傾化そして幼稚化は目も当てられない。

《ピンチはチャンスという。新型コロナウイルスの感染拡大という大災厄が、医療体制の脆弱(ぜいじゃく)性や社会の歪(ゆが)みなど、さまざまな問題点に気づかせてくれたことは幸いだったと思いたい》(読売社説「平和で活力ある社会築きたい」)

 <医療体制の脆弱性>と言うが、これは医療だけの問題ではない。日本社会全体に共通するものであろうと思われる。

 何事につけ、日本は事が起こってから「対症療法」的な対応を施す傾向が強いように思われる。これがどれほど民族性によるのかは一概には言えないのだろうけれども、事に備えるという発想が弱いことだけは確かであろう。また、日本は民主主義国であるために、利害関係が複雑に入り乱れ、決断が遅れがちでもある。

 今あるコロナ第3波においても、昨年11月に海外からの入国を緩和したことの影響が大きかったと思われる。また、おかしな博愛主義に囚われ、第1波の際、感染者の多くのが海外からの人達であったことや病床の多くを外国人が占拠していたことが公表されないという問題があったとされるが、現在はどうなのか気になるところでもある。

 <社会の歪み>という言い方も弱者目線の言い方で、おそらく大局的観点が欠落しているように思われる。

《なすべき改革を断行し、苦難を乗り越えて、平和で健康な、そして活力ある社会を築き直す好機としなければならない》(同)

 こういう抽象的な綺麗事をただ並べただけでは何も社会は変わらない。<平和>だ何だと呑気に言っていること自体、地に足の着かぬ夢物語のように聞こえてしまう。

《何よりもまず、コロナ禍の収束に全力をあげるべきである。経済との両立が必要なのは当然だが、感染の拡大を抑えないことには経済活動も順調に回転するはずがない》(同)

 コロナ対策か経済かは二者択一ではない。それも分からない人間が偉そうに社説を書いているのが不思議である。

 読売社説子の言い分は、感染を抑えるためには、一時的に経済活動を停止することもやむを得ないということなのだろうが、経済活動を止めれば、生活困窮者が増え、自殺者が増加することは目に見えている。コロナを抑え込もうとすることだけに躍起になるのはやはり間違っている。

 否、コロナ禍の収束は時間の掛かるものであるから、今経済活動を停止して一時的に感染拡大を抑え込んだとしてもそれで終わりにはならない。つまり、コロナといかに付き合っていくのかという観点で対策を講じなければ意味がないのである。【続】