保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

新聞週間に向けての新聞の意気込みについて(1) ~「メディアリテラシー」の必要性~

《紙面の片隅で、ふと目にした記事をきっかけに社会への関心が高まる。読者と社会をつなぐ役割を果たせるよう、報道の充実に努めたい》(10月14日付読売新聞社説)

 何だろう、この「ゆるふわ」な文章は? SNSの普及によって新聞が非常に厳しい状況に追い込まれているという認識はあるのだろうか。

《新聞週間が15日から始まる。今年の代表標語には「新聞を開いて僕は世界を知った」が選ばれた。徳島市の中学2年生の作品だ。

 ノーベル平和賞受賞者のマララ・ユスフザイさんが難民キャンプに学校を開設したという記事を読み、「日本で暮らす自分と違い、世界には勉強する機会すらない子がいることを知った」という。

 新聞記事が、視野を広げる手がかりとなったのだろう》(同)

 中学2年生にケチを付けるのは大人げないと言われてしまうのだろうが、新聞を開いて知ったのは<世界>ではなく単なる外国の一事である。<世界を知った>などと言うのは誠にもって烏滸(おこ)がましい。

 おそらくこの中学生はこういうことに興味がなかっただけである。人間の興味など知れたものである。要は、新聞を見て興味関心がそちらに移っただけであり、その方面に視野が広がった分、また別の部分では興味関心が薄れ、視野が狭まったということになってはいないのだろうか。

 誤解しないでいただきたいのは、批判したいのはこの中学生ではなく、<新聞記事が、視野を広げる手がかりとなったのだろう>などと言って自画自賛する新聞の方である。

《学校現場では新聞を活用した授業が行われている。環境や少子化などのテーマについて記事を読み比べたり、文章にまとめたりする取り組みだ。多角的な記事で様々な視点を提供し、子供の思考力や表現力の向上に役立ちたい》(同)

 果たして新聞は<多角的な記事で様々な視点を提供>しているのだろうか。むしろ、一面的な記事で視点を偏らせていやしないかとの疑念が湧くものが少なくない。

 例えば、先日閉幕した国際芸術祭・あいちトリエンナーレ2019の企画展「表現の不自由展・その後」にしても、肝心の「天皇御真影を焼き、その灰を踏み付ける映像」や「特攻隊の寄せ書きを被せ『間抜けな日本人の墓』と題した祠(ほこら)」がそこに含まれていたことにまでしっかり言及したのは独り産經新聞だけだったように思われる。

 都合の悪いことは報道しないという悪しき習慣が最近の新聞にはよく見られる。

《近年、情報をインターネットで得る人が増えているが、ネット情報には不正確なものも多い。

 読売新聞の世論調査では、ネット上の偽情報を信じたことがあると答えた人が4割を超えた。新聞への期待で最も多かったのは、情報を正確に伝えることだった。丁寧な取材を重ね、正確な報道をする責任を改めて痛感する》(同)

 確かにネットには匿名の情報が溢れ、真偽のほどが疑われる情報が少なくない。が、一方で新聞も無署名記事が少なくなく、責任の所在が曖昧であることには変わりない。要は、どの情報が正しく、どの情報が偽物なのかを判断する「メディアリテラシー」が大切だということである。【続】