《参院選は、国会の著しい機能低下が指摘される中での審判でもある。三権分立の機能不全を放置していいのか、公約と併せて問いたい》(7月4日付東京新聞社説)
まさに東京新聞的視点である。参院選を通じて<三権分立の機能不全>などというものが問題とされたことはなかったと思われる。三権分立が機能不全だと感じる社説子が敏感過ぎるのか、三権分立に特段言挙げするほど大きな問題を感じていない我々が鈍感なのか。
社説子は「改憲」について次のように言う。
《改憲しなければ、国民の平穏な暮らしが脅かされる切迫した状況でないにもかかわらず、党是だからと急ぐ必要がどこにあるのか》(同)
これは私とは認識が180度異なる。切迫した状況になってからでは遅いのである。否、それよりも重要なことは、切迫した状態では冷静な議論が出来ないということである。
また<党是>だから急いでいるわけでもない。米国と北朝鮮の交渉が首尾よく終われば良いが、そう簡単にうまくいくと考えるわけにはいかない。交渉が決裂し米朝が衝突することになれば、日本もそれなりに支援することが要請されるに違いない。その際、自衛隊は憲法上違憲存在であるなどという話が蒸し返されないよう法整備をしておこうとしているのである。
私は、自衛隊は違憲存在だと考えるが、その意味は、今存在する自衛隊を解体せよということではなく、憲法が間違っているのであるから、憲法の方を廃止せよということである(ちなみに、私は現行憲法は廃止し、英国流の不文憲法とすべきだという立場である)。
昭和28年(1953)12月に、講和後初の国賓として来日した副大統領ニクソン(当時)の、日米協会における演説がある…そのときニクソンは、戦後はじめて公式に、米国が日本の非武装化を企図したことの誤りを認め、次のように述べたのである。
《さて、もし1946年において非武装化が正しかったとすれば、何故にそれが1953年の現在誤りであるのか! そして、もしそれが1946年においてのみ正しく、1953年の今日においては誤りであるとすれば、何故に合衆国はいさぎよくその誤りを認めないのでしょうか? 私はこれから、公務についている人間が果さなければならぬ務めを一つ果そうと思います。今日只今この場所において、私は合衆国が1946年に誤りをおかしたことを認めます》(江藤淳『1946年憲法―その拘束』(文藝春秋)、p. 82)
日本に影響すること大である北朝鮮を日本が見て見ぬ振りしているにもかかわらず米国が身を挺して叩くことに果たして米国民の賛同が得られるだろうか。少なくとも、日米が協力して叩くという形が取れなければ話にならない。そのためには自衛隊違憲論は解消しておかねばならないということである。【続】