保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

「小島慶子『令和の皇室は生きづらさを覚える現代の家族の象徴だと思う』」について

<夫と息子たちが住むオーストラリアと、仕事のある日本とを往復する>という小島慶子女史に分からないのは仕方のないことなのであろうか。小島女史は言う。

《新天皇が即位して、元号が新しくなる。それで時代は変わるのでしょうか》(AERA 2019年5月13日号

 少なくとも元号が変われば時代を見る立ち位置が変わる。たとえ同じ風景であっても、平成から見る風景と令和から見る風景とでは自ずと何かが違って見えるものである。

 が、時代は変わっても良いし、変わらなくても良い。元号が変われば時代は変わるのか、などと意気込んで問い質す必要はない。

上皇ご夫妻に、私は悼みと祈りを付託していました。両親は、子どものころに第2次世界大戦を経験しています。父は上皇さまと同い年でした。両親が経験した爆撃や飢えや貧しさを聞くにつけ、戦禍に倒れた多くの犠牲者たちに対して「何かしなくては」という思いが募っていきました。それがご夫妻の慰霊の旅によって果たされたような思いがしたのです。まして戦争を経験した世代にとって、それはどれほど重みのあることだったかと思います。同じことは公害や災害にも言えます。無力感や後ろめたさが、ひざまずくご夫妻のお姿によって和らぐような気がしました》(同)

 <戦禍に倒れた多くの犠牲者たちに対して「何かしなくては」という思いが募って>も何も出来ないもどかしさを上皇陛下の<慰霊>によって解消してくださった。皇室の有難さとはそういうものであろう。が、私は現世の問題を皇室に依存しすぎることをあまり好まない。現世の問題は今を生きる我々自身が主体的に解決すべきことである。

《私は、令和の時代の天皇に何を付託するのか》(同)

 天皇がいかなる存在であるのかを深く考えたことがない人たちがこのような問いを発するのは仕方のないことなのかもしれないが、当たり前であるが天皇は我々日本人の「便利屋」なのではない。困ったことがあれば、自ら大した努力をすることもなく、いとも簡単に容易く天皇に問題解決をお願い出来てしまうのが戦後日本人というものなのだろうか。

天皇、皇后両陛下は、人々の何を象徴しているのでしょう。国民統合の象徴という言葉は曖昧で、実感が湧きません》(同)

 天皇憲法の言う通り、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である。小島女史はこのことを真剣に考えたことがないのであろう。だから実感が湧かないのである。

《令和の皇室は、国民統合の象徴というより、制度疲労を起こした共同体の中で生きづらさを覚える現代の家族の象徴であり、さまざまな葛藤を抱えながら伝統の読み替えと抑圧からの解放を模索する個人の姿を見る人も少なくないでしょう。むしろそのようなまなざしによって、私たちは共にあるということの新しい形を見つけるのではないかと思います》(同)

 天皇に<制度疲労を起こした共同体の中で生きづらさを覚える現代の家族>を投影するような日本人が多いとはとても思われない。<伝統の読み替え>とは具体的にどのようなこと意味しているのかよく分からないし、現代にあってマルクス主義よろしく<抑圧からの解放を模索する個人>などと考えている人がどれほどいるのか。

 自分が思ったことを自由に口に出来る。それは自分にとっては有難いことであろうが、社会にとっては迷惑なのかもしれない。そのことが分かった人と分からない人との文章では、その価値が違ってくるのは当然のことである。