保守論客の独り言

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投票に行かないことについて(1) ~民主主義への攻撃?~

憲法記念日の3日、東京都内で開かれた護憲派集会で、京都大教授の高山佳奈子氏がマイクを握り、「今変えるべきは憲法ではなく安倍晋三政権だ」と訴えた》(産経新聞ニュース5/3() 18:35配信)

 憲法を変えるべきかどうかは、安倍政権を変えるかどうかとは直接関係はない。つまり、安倍政権が変われば憲法の問題が解決するわけではないということである。このように位相の異なるものを2つ並べて言葉遊びに興ずるようなことはやめるべきだ。

 記事によれば、高山女史は安倍政権というよりも自民党改憲案を問題にしているようである。が、こんな政治的な改憲案を学者が政治的に批判してどれほど意味があるのだろうか。憲法をもっと本質的に考え議論することが高まらなければ、日本の低空飛行は今後も続くに違いない。否、場合によっては墜落の憂き目を見るということにもなりかねない。

 さて、私が高山女史の発言で気になったのはむしろ安倍政権批判とは関係のない次の部分である。

 「よく若い人たちの間に『投票には興味がない』『政治には失望しているから』と言って、かっこつけているような感じで棄権をする方がいらっしゃいます。しかし、この行動は、単に何もしないということではありません。単なる政治に対する皮肉ではありません。民主主義を自分の行動でもって否定しているということです。

投票に行かないということは、誰が政権の座に就こうがそれに従うという意思を自分の行動で示しているということでありますから、まさに独裁制を支持するという考え方」(同)

 民主主義とは、詰まるところ平等主義である。投票ということにおいても、政治にいかに精通していようがいまいが一人一票である。そしてこの一票が当落を決めることは余程のことがない限りない。つまり、一票を投じようが投じまいが変わりはないということである。こんな「無価値」なものに拘泥しても意味がない。そう思うのが自然ではないか。

 高山女史は棄権するのは<民主主義を自分の行動でもって否定している>と言う。大いに結構なことではないか。一人一票の民主主義にひれ伏すほど私の精神はやわではない。

 <投票に行かないということは…独裁制を支持するという考え方>ではない。学者とは思えないほどの論理の飛躍である。それどころか、<投票に行かないということ>は、投票に行く人たちの意見を肯定するということであり、民意の尊重、すなわち優れて民主主義的だとさえ言えるだろう。【続】