保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

新元号「令和」について(3) ~国民重視、伝統軽視~

改元1カ月前という今回の政府の決定は、国民生活を最優先したものとは言い難い。混乱を避けるため、当初は昨夏の公表も想定したが、新元号は新天皇の下で決めるべきだという保守派への配慮から、このタイミングとなった。官民のコンピューターシステムの改修は綱渡りの対応を迫られる。

 改元をめぐる政府の記録や情報公開のあり方も問われる》(4月2日付朝日新聞社説)

 そもそも<国民生活を最優先>して新天皇陛下御即位前に新元号を公表することは伝統に背くものである。否、陛下の生前退位を政治的に認める段階から、伝統を軽んじる所業が目に余る。

《現今の諸事雑事を問題にする場合、いやしくも平凡人の一致した意見を重視するのであれば、歴史や伝説を問題にする場合、いやしくもそれを無視すべき理由はない。つまり、伝統とは選挙権の時間的拡大と定義してよろしいのである。

伝統とは、あらゆる階級のうちもっとも陽の目を見ぬ階級、われらが祖先に投票権を与えることを意味するのである。死者の民主主義なのだ。

単にたまたま今生きて動いているというだけで、今の人間が投票権を独占するなどということは、生者の傲慢な寡頭政治以外の何物でもない。伝統はこれに屈服することを許さない。

あらゆる民主主義者は、いかなる人間といえども死の偶然によって権利を奪われてはならぬと主張する。伝統は,いかなる人間といえども単に出生の偶然によって権利を奪われてはならぬと主張する。正しい人間の意見であれば、たとえその人間が自分の下僕であっても尊重する―それが民主主義というものだ。正しい人間の意見であれば、たとえその人間が自分の父であっても尊重する―それが伝統だ。

民主主義と伝統―この2つの観念は、少なくとも私には切っても切れぬものに見える。2つが同じ一つの観念であることは、私には自明のことと思えるのだ。われわれは死者を会議に招かねばならない。古代ギリシャ人は石で投票したというが、死者には墓石で投票してもらわねばならない》(チェスタトン「おとぎの国の倫理学」:G.K.チェスタトン著作集1『正統とは何か』(春秋社)p. 76:福田恆存安西徹雄訳)

 <国民生活を最優先>する政治、それは「大衆迎合主義」に他ならない。「大衆の気分」が政治を差配することの危険は今更言うまでもないだろう。

 風の吹くまま、気の向くまま、それが「気分」というものである。「気分」にはさしたる理由はない。当然そこには責任意識はない。そんな「気分」に政治が迎合すれば、無責任が社会に蔓延するのも無理はない。【続】