冒頭何の脈略もなく次のように怪気炎をあげる。
《アイヌの人々がたどった歴史と、豊かな文化への理解を深め、将来に引き継ぐことが大切だ》(3月25日付読売新聞社説)
私にはどうして社説がこのように唐突で主観的な書き出しなるのか分からない。が、昨今の社説はこのような文章構成が少なくない。
《政府は、アイヌ民族に関する新たな法案の今国会での成立を目指している。「先住民族」と初めて明記し、文化の継承を国と自治体の責務と位置付けた。内閣にアイヌ政策推進本部を設置し、態勢も強化する》(同)
一見何の問題もないように思われるかもしれないが、要は「アイヌ利権」を認めるということである。
事情に詳しくない人は、ケチなことは言わず認めてあげればいいのにと思うのだろう。が、これは決して人道的な問題ではなく非常に政治色の濃い問題なのである。
《アイヌ施策の拡充に乗り出す契機となったのは、2007年に採択された「先住民族の権利に関する国連宣言」だ。翌年、衆参両院はアイヌ民族を先住民族とすることを求める決議を採択し、政府も先住民族との見解を表明した》(同)
これは米国のネイティブアメリカンや豪州のアボリジニのように入植者が先住民を虐殺したことの反省に立つものであって、これと日本のアイヌの話を同列に論ずるべきではない。
どれくらいのアイヌが現存しているのか。否、そもそもアイヌとはどのような人達を指すのか。アイヌ語を話せる人はどれくらいいるのか。
《2007年の推定では、約1万5000人のアイヌの中で、アイヌ語を流暢に話せる母語話者は10人しかいなかった。さらに別の推定では、アイヌ語を母語とする人は、千島列島では既に消滅し、樺太でもおそらく消滅していて、残る北海道の母語話者も、平均年齢が既に80歳を越え、母語話者数も10人以下となっている》(ウィキペディア「アイヌ語」)
アイヌ語が話せない人をアイヌと称してよいものか。現在のように入植者と同化してしまっていては、「アイヌとは誰か」については大いに議論のあるところであろう。
アイヌであるかどうかはアイヌ協会なるものが認定しているらしい。
小林 自分がアイヌと言ったらアイヌなら、わしもアイヌということになってしまう。
香山 それは違います。極端な政治学者なんかは、主観的な帰属意識だけでよいと言っている人もいます。しかしそれではあまりにも曖昧なので、客観性と主観性両方で判定するんです。
小林 じゃあ客観性って何なの?
香山 アイヌ協会に自己申告して認められるのもそのひとつですよね。
小林 何だそれ! アイヌ協会がポンと判を押して「アイヌだ」と言ったらアイヌなの?
香山 違います。最後まで聞いてくださいよ。アイヌ協会の定款によると、本人の入会申込書をもとに理事会での決議で決まります。戸籍を含めての審査と聞いています。主観性と客観性ですね。この両方で判定します。
小林 戸籍が客観性なのね?
香山 それしかないですからね、今のところ。
(ironna:小林よしのり×香山リカ アイヌと差別をめぐる対決対談:『月刊「創」』 2015年3月号)
《アイヌの誇りを尊重し、支援する上で大きな意義を持とう》(同)
と社説子は扇動する。
が、アイヌ語が話せない、したがって、アイヌの言魂(ことだま)を持ち得ず、アイヌというよりも日本人として日常の生活を営んでいる、そういう人達の<アイヌの誇り>を一体どう尊重せよというのだろうか。