保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

都立高校教員の体罰動画について(2) ~アノミーに陥った学校~

先生と生徒の関係が崩れてしまっている中で今回の事件は起った。その最大の原因は、生徒を増長させてしまった学校にあると私は考える。

《校長は18日の会見で教師の暴行について「生徒に非があるような内容ではありません」と発言。被害生徒は校則で禁じられているピアスをつけていたが「違反ではない」との認識を示し、生徒を徹底的にかばった。一方で、教師の過失を認め、行為を非難した》(01/22 15:56 東スポWeb)

 校長がこのような態度では生徒がやりたい放題になっても仕方がない。校長が生徒の好き勝手を容認してしまっているような学校では教師が真っ当な生徒指導を行えるはずがない。

 タレントのデヴィ夫人は自身のブログで次のように校長を非難している。

《生徒の悪さは取りあげず、頭から先生を非難した校長は教育者として失格。 この人こそ責任をとって辞職すべき。こんな生徒を野放しにしていた責任を取るべきです。ここまで生徒たちを増長させた校長こそ社会に陳謝するべきです》(「デヴィの独り言 独断と偏見」1月21日付)

 学校には本来、守るべき「規範」がある。規範がなければ教育は成り立たない。おそらく校長はこのことに対する自覚が足りなかったのだと思われる。

《いったん弛緩してしまった社会的な力が、もう一度均衡をとりもどさないかぎり、それらの欲求の相互的な価値関係は、未決定のままにおかれることになって、けっきょく、一時すべての規制が欠如するという状態が生まれる。人々は、もはや、なにが可能であって、なにが可能でないか、なにが正しくて、なにが正しくないか、なにが正当な要求や希望で、なにが過大な要求や希望であるかをわきまえない。だから、いきおい、人はなににたいしても、見境なく欲望を向けるようになる》(デュルケーム『自殺論』:『世界の名著47』(中央公論社)、p. 211)

 よって、今回の事案も「アノミー」の分析が必要となるに違いない。

《欲望は、方向を見失った世論によってはもはや規制されないので、とどまるべき限界のどこにあるかを知らない。そのうえ、このときには、一般に活動力が非常に高まっているため、それだけでも、欲望はひとりでに興奮状態におかれている。繁栄が増すので、欲望も高揚するというわけである。

欲望にたいして供される豊富な餌(え)は、さらに欲望をそそりたて、要求がましくさせ、あらゆる規則を耐えがたいものとしてしまうのであるが、まさにこのとき、伝統的な諸規則はその権威を喪失する。したがって、この無規制あるいはアノミーの状態は、情念にたいしてより強い規律が必要であるにもかかわらず、それが弱まっていることによって、ますます度を強める。

 だが、そのときには、情念の要求するものそれ自体がはじめから充足を不可能にしている。激しくかきたてられる渇望は、獲得された成果がなんであろうと、つねにそれをふみこえてしまう。こえてはならない限界について警告を発してくれるものがないからである。したがって、渇望を満たすものがないまま、その心の苛(いら)だちは、それ自体やすらぎもなく永久につづく》(同、pp. 211-212)【続】

(注)「アノミー」anomieという言葉は、元来は「神の法の無視」を意味するギリシア語で、中世以来廃語となっていたものを、デュルケーム社会学上の用語として復活させたのであった。以来、この語は人々の行動を規制する共通の道徳的規範の失われた混乱状態を意味する術語として、社会学の分野では広く使われている。(『世界の名著47』、p. 37)