保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

都立高校教員の体罰動画について(3) ~日本における「構造的アノミー」~

《戦前の日本を特徴づけた頂点における天皇制国家と底辺における村落共同体という二つの重要な共同体は、もはや存在しない。

 存在する共同体としては、いまや会社、官庁などの共同体的機能集団しかない。故に、誰も生活のためという理由だけでなく、連帯を求めて、これらの集団に入らなければならない。

 そのためにはまず、入試という通過儀礼がある。しかも、現代日本における入試は、業績が属性に変換するが故に、「ナナメの階層」を生じた。

 さらに、「ナナメの階層」によって「限界差別の法則」が生まれ、これが階層の連帯を不可能にして、アノミーができた》(小室直樹『あなたも息子に殺される』(太陽企画出版)、pp. 169-170

 日本には公然たる、制度としての「階層」はない。だから本来、人と人はヨコの関係にあるはずである。にもかかわらず、隠然たる「序列」は存在する。それが小室氏言うところの「ナナメの階層」である。

《制度化されたタテの階層の場合であれば、資本家と労働者、貴族と平民というように、すっきり二分類される。インドのカースト制でも細目を別にすれば根本的には四分類にすぎない。さらに重要なことは、その分類が固定しているのである。これに対し、わが国の「ナナメの階層」は、無限に細分化する。本来は同じものが、一流企業に属する人、二流企業に属する人、三流、四流……といった形で、次々に階層化するのである。

 もちろん、一流、二流の差別といえども、自由民と奴隷のように明確な境界線によって区別されているわけではない。一流ともいえるが、二流ともいえるようなものが、他方では境界に続々と存在することともなる。(中略)

「ナナメの階層」では、人々の階層は順序づけられた斜線上の位置で決まるのだが、どの範囲までが自分と同一の階層に属するのか、必ずしも明白ではない。そこで、人々は自分のすぐ下に線を引き、自分は常に線の上方に属させて、その線より下の者を差別する。この不思議な差別法が「限界差別の法則」だ》(同、pp. 155-156

 日本におけるアノミーは社会構造から生じる「構造的アノミー」であり、

《そうした社会構造がある限り、個人がどうあろうと、このアノミーは不断に生み出され続けるばかりか、アノミーアノミーを拡大再生産する》(同、p. 169

 このような状況の中で、校長にだけ責任を問うても意味がないのではあるが、少なくとも校長が権威の象徴として「規則」を重んじるという確たる態度を示さなければ、学校が教育の場として成立しなくなってしまうであろうことは今回の一件からも分かることではないだろうか。【了】