保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

LGBT問題は政治問題か文学問題か(4) ~政治は個人の主観を救えないか~

《政治は個人の「生きづらさ」「直面する困難」という名の「主観」を救えない。

 いや、救ってはならないのである。

 個人の生―性―の暗がりを、私たちはあくまで個人として引き受けねばならない。その暗がりに政治の救いを求めてはならず、政治もまた同調圧力に応じてふわふわとそうした動きに寄り切られてはならない。

 私的な領域を救うのは、個人の努力とその延長にある共同体の道徳、智慧であり、それはまさに「人生そのものの領分」だ。

 政治の役割は生命、財産、安全のような、人生の前提となる「条件」を不当な暴力から守る事にある。

 大きな政府論だろうと小さな政府論だろうと、この大原則は揺るがせてはならない。

 なぜならば、それは苦痛や生き難さも含めた人生の私的領分という尊厳を権力に売り渡す事に他ならないからだ》(小川榮太郎「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」:『新潮45』2018年10月号、p. 89)

 政治が個人の主観を救ってはならないとか、<生―性―の暗がり>に政治の救いを求めてはならないなどという道理はない。個々人の「生きづらさ」が社会に共通するものであれば、政治がこれを取り除こうと努力するのは当然のことであるし、たとえ個人の「暗がり」に属することであっても、それが社会生活を営む基盤に関わるものであれば、政治に救いを求めるのは当たり前のことである。

 小川氏は、個人と社会の問題はきれいに二分されうるものと考えているかのようであるが、物事はそんな単純なものではない。白と黒の間にはどちらとも言えない灰色の部分が必ずといって存在するものである。

 言い方を変えれば、個人にも社会にも私的な部分と公的な部分が存在するのであって、個人的な問題であれ社会的な問題であれ、公的な問題に政治が関わるべきであるのは言うまでもない。

《当事者が求める「LGBT差別禁止の法制度」は、日本国憲法で保障されている国民の幸福追求権を要求しているのだ。

 LGBT問題を政治から切り離し、文学の問題へと還元することこそが、恣意(しい)的な政治である。小川の文章は、差別表現だけが問題なのではなく、その主題においても間違えていると指摘しなければならない》(中島岳志「LGBT問題は文学か政治か 法制度で困難は解消」:10月24日付東京新聞「論壇時評」)

 福田恆存『一匹と九十九匹と』に準(なぞら)えれば、LGBTの問題は、本来九十九匹の羊を政治が救わなければならないにもかかわらず、八十匹、九十匹だけ救って残りの十匹、二十匹を文学に押し付けるようなことになってはいないかということである。LGBTは政治が救うべき問題だと言いたいわけではない。救える部分、救わねばならない部分もあるのではないかと少し考えてみても良いのではないかということである。

 白か黒かで言い合っているだけでは問題は解決しないことだけは確かである。【了】

P.S. 残念ながら「失せたる一匹」について今回は論及出来なかった。後日改めて触れることとしたい。