保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

LGBT問題は政治問題か文学問題か(3) ~政治と文学~

評論家・福田恆存(ふくだ・つねあり)氏は、かつて

《政治と文學とは本來相反する方向にむかふべきものであり、たがひにその混同を排しなければならない》(『一匹と九十九匹と』:『福田恆存全集 第1巻』(文藝春秋)、p. 643

と言った。中島岳志教授は次のように解説する。

《政治は多様な人間が共存していくための利害調整であり、より多くの人が幸福を追求できる環境を整えようとする。しかし、いくら良い政治が行われていても、それでは救われない「失(う)せたる一匹」が存在する。健康の心配もなく、経済的余裕も手に入れたが、それでも生の苦悩から解放されないという人は存在する。いくら環境や条件が整っていても、存在自体の悲しみからは自由になれない。

 そんな根源的な苦悩に苛(さいな)まれた「一匹」に対して、政治は無力である。いや無力でなければならない。政治が「一匹」の苦悩を救済しようとすると、人間の心の領域を支配することになる。それは全体主義を生みだしてしまう。政治は自らの限界に自覚的でなければならない。絶望の淵をさまよう「一匹」を救うことができるのは文学である。「文学者たるものはおのれ自身のうちにこの一匹の失意と疑惑と苦痛と迷ひとを体感してゐなければならない」》(「LGBT問題は文学か政治か 法制度で困難は解消」:10月24日付東京新聞「論壇時評」)

 『一匹と九十九匹と』は難解である。福田氏の言わんとするところを読み取るのは正直私の手に余る。その私が言うのも烏滸(おこ)がましいが、中島教授の解釈には違和感がある。福田氏は、<利害調整>などという打算的な話をしているわけでもないし、<幸福を追求>などと上っ面なことを言っているのでもない。<全体主義>という政治学用語も場違いだと思われる。

《「なんじらのうちたれか、百匹の羊をもたんに、もしその一匹を失はば、九十九匹を野におき、失せたるものを見いだすまではたづねざらんや。」(ルカ傳第15章)

はじめてこのイエスのことばにぶつかつたとき、ぼくはその比喩の意味を正當(当)に解釋(釈)しえずして、しかもその深さを直觀した。もちろん正統派の解釋は蕩兒(児)の歸(帰)宅と同樣に、一度も罪を犯したことのないものよりも罪を犯してふたたび神のもとにもどつてきたものに、より大きな愛情をもつて對(対)するクリスト者の態度を説いたものとしてゐる。

たしかにルカ傳第15章はなほそのあとにかう綴つてゐる―「つひに見いださば、喜びてこれをおのが肩にかけ、家に歸りてその友と隣人とを呼びあつめていはん、『われとともに喜べ、失せたるわが羊を見いだせり』われなんじらに告ぐ、かくのごとく、悔い改むるひとりの罪人のためには、悔い改めの必要なき九十九人の正しきものにもまさりて天に喜びあるべし。」

 が、天の存在を信じることのできぬぼくはこの比喩をぼくなりに現代ふうに解釋してゐたのである。このことばこそ政治と文學との差異をおそらく人類最初に感取した精神のそれであると、ぼくはさうおもひこんでしまつたのだ。かれは政治の意圖が「九十九人の正しきもの」のうへにあることを知つてゐたのにさうゐない。かれはそこに政治の力を信ずるとともにその限界をも見てゐた。なぜならかれの眼は執拗に「ひとりの罪人」のうへに注がれてゐたからにほかならぬ。九十九匹を救へても、残りの一匹においてその無力を暴露するならば、政治とはいつたいなにものであるか―イエスはさう反問してゐる》(『一匹と九十九匹と』:同、p. 644【続】