保守論客の独り言

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東京新聞の偏った憲法論(1)~「国民主権」という誤り~

《帝政時代の憲法は鉄血宰相で有名なビスマルクらが制定した。だが、共和政へと国家の形が変われば新憲法がいる。それが1919年のワイマール憲法だ。つまり国民との社会契約が変わるとき憲法も変わる》(11月3日付東京新聞社説)

 11月3日は日本国憲法が公布された日ということでこのような話を持ち出したのであるが、早速「社会契約」という言葉が引っ掛かった。言うまでもなく「社会契約」という概念は西欧産である。それが日本に持ち込まれて日本国憲法が作られたという話は「虚構」(fiction)である。

 敗戦後、日本の主権は剥奪され、日本はGHQの占領下に置かれた。主権のない日本人が新たな「社会契約」の下に新たな憲法を制定したなどというのは見え見えの「嘘話」である。

《戦後の日本国憲法も敗戦により、天皇主権から国民主権へと政体が変わったから、新たな社会契約として制定されたのだ》(同)

 戦前は、「天皇は君臨すれども統治せず」という「立憲君主制」なのであって、これを「天皇主権」などと称すべきではない。<天皇主権から国民主権へと政体が変わった>というのは、フランス革命に準(なぞら)えた話でしかなく、戦前も戦後も日本は「立憲君主制」に変わりはない。ただ天皇が神から人間に変わっただけである。

 戦後は国民が主権を有することになった、このことによって戦前の暗黒は一掃された、というのが教科書的見解である。日本国憲法第1条には「主権在民」が謳われている。

天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

 が、戦前の大日本帝国憲法にはこのような主権の規定はない。ただ戦後が「国民主権」なら、戦前はこれの差集合たる「天皇主権」だったと左翼学者が言っているだけである。

 「主権」(sovereignty)とは「無制限の権力」ということである。国民にこのような力があると考えることは誤りである。そのことはフランス革命の顛末(てんまつ)を見ても明らかである。「無制限の権力」を手に入れたと僭称した「国民」の暴走、それが革命なるものの正体であった。

《もし…「主権」がどこにあるかと問われるならば、どこにもない…というのが答えである。立憲政治とは制限された政治であるので、主権を無制限の権力と定義するならば、主権集団の入り込む余地があろうはずがない…無制限の究極の権力が常に存在するに違いないという考えは、すべての法の淵源は立法機関の周到な決定にあるという誤った考えに由来する迷信である》(ハイエク『法と立法と自由』第3部 自由人の政治的秩序 第17章 一立憲政体モデル)【続】