保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

同性婚判決について(3) ~司法に凭れ掛かる護憲派~

《人の生き方はひとつではない。多様性を認め、すべての人が暮らしやすい社会の実現は、新たな活力を生む源泉にもなりうる。

LGBT性的少数者)の尊厳が守られ、安心して生活できる環境づくりはその大切な一歩だ》(3月19日付日本経済新聞社説)

 <すべての人が暮らしやすい社会>などあるはずがない。甲にとって暮らしやすい社会が乙にとって暮らしにくい社会ということになれば、甲乙ともに暮らしやすい社会は成立しないのである。

 「最大多数の最大幸福」(ベンサム)と言うのが精一杯なのであって、<すべての人が暮らしやすい社会>など「妄想」でしかない。

 否、1つだけこれが可能な社会がある。それは「全体主義社会」である。暮らしにくいと言うことが許されない<すべての人が暮らしやすい社会>を希求する日経社説子は、かつてのソ連や今の北朝鮮を「楽園」と見るかのような全体主義者なのか。

 更に昨今気懸かりなのは、<多様性>なる言葉を便利に使用しようとする傾向である。当たり前であるが、多様化は「絶対善」ではない。例えば、日本に異民族が入ってくれば、活性化に繋がる部分がある一方で、異なった価値観の混入によって社会秩序が乱される。

 多様化する方向性は間違っていなかったとしても、多様化を急ぎ過ぎるがあまり、社会の混乱を招くようなことがあってはならないだろう。社会の変化は「漸進(ぜんしん)的」、すなわち、穏やかなものであるべきだ。

 LGBTであろうとなかろうと、個人の尊厳は憲法によって守られている。にもかかわらず、LGBTの尊厳を主張するとすれば、それは「優遇」の要求である。

《判決は性的指向について「自らの意思にかかわらず決まる個人の性質で、性別、人種などと同様のもの」と指摘した》(同)

 が、私は司法がここまで踏み込むことに疑問がある。果たして性的志向は自らの意思にかかわらず決まる個人の性質なのか否か。確かにそうなのかもしれない。が、そう言い切って良いのか。

 これは司法としての大枠の見解なのか。それとも武部知子裁判長個人の意見なのか。

 これは時代の変化に伴う憲法改正がなされぬ立法府の不作為に対する牽制なのか。

 憲法上問題があると言うのなら、改正を促せばよい。が、他の条項の変更に飛び火する可能性があるから同性婚賛成派は憲法改正を言い出せない。だから司法に凭(もたれ)れ掛かる。だから三権分立が歪(ゆが)む。

 同性婚を認めるには憲法改正が必要である。が、同性婚賛成派は並(な)べて護憲派である。憲法を変えずに、中身を変えようとする。これでは立憲主義は成り立たない。【了】