保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

立憲山尾衆院議員の「立憲的憲法改正」について(4) ~不文憲法と議論の両輪~

「自生的秩序」を生かすことは重要ではあるが、「弱点」もある。

though the use of spontaneous ordering forces enables us to induce the formation of an order of such a degree of complexity (namely comprising elements of such numbers, diversity and variety of conditions) as we could never master intellectually, or deliberately arrange, we will have less power over the details of such an order than we would of one which we produce by arrangement. In the case of spontaneous orders we may, by determining some of the factors which shape them, determine their abstract features, but we will have to leave the particulars to circumstances which we do not know. Thus, by relying on the spontaneously ordering forces, we can extend the scope or range of the order which we may induce to form ― F.S.Hayek, Law, Legislation and Liberty:Volume 1:2 In society, reliance on spontaneous order both extends and limits our powers of control

(自生的秩序化力を利用することで、決して知的に習得したり意図して取り決められないような複雑さの度合いの(すなわち、非常に多くの、多様で、種々の条件の要素から成る)秩序の形成を促すことは可能であるけれども、取り決めによって作るものほどそうした秩序の細部には力が及ばない。自生的秩序の場合、それを形作る要素の一部を見付け出すことによって、それの抽象的特徴は見付け出せるかもしれないが、細目は未知の事情に委ねなければならない。こうして、自生的秩序化力に頼ることで、形成を促す秩序の領域や範囲を広げることができるのである)

 これを憲法に置き換えれば、作られた「成文憲法」よりも自生的な「不文憲法」の方が複雑な問題を捉えられるけれども細目は詰められない。これを補うのが国会における議論である。

 大きくは「不文憲法」に基づいて、言い換えれば、歴史、伝統、慣習といったものに基づき、細部は時の状況に応じて議論し煮詰めていく、これが私の言う「不文憲法論」ということになる。

 翻(ひるがえ)って、「立憲的憲法改正」の考え方は、いかに憲法によって権力を縛るのかに視点が偏り過ぎて、議論の余地があまりにも少な過ぎる嫌いがある。考えてみれば、山尾議員の問題意識も議論を通して得られたものではなく、ただ自分の思想信条を絶対的なものと見立て、これに反するものを憲法に条文化し権力を縛ろうとするものに他ならない。

 このようなやり方では、右寄りの政権が出来れば左寄りの考え方が憲法によって縛られ、左寄りの政権が出来れば、右寄りの考え方が縛られるなどという馬鹿げたことにもなりかねない。

 山尾議員は、

《日本の憲法論議の不幸は、権力を拡大する「改憲」提案しかほとんど経験しておらず、権力者をしばる本来の「改憲」提案がされてこなかったことにある。

 今こそ硬直化した「改憲議論」から前進し、「権力をしばる改憲」という本質的かつ新しいコンセプトのもと、野党と国民がプレーヤーとなって幅広い議論をかわすべきだ》(「立憲的憲法改正のスタートラインとは」:20171226日付「WEBRONZA」)

と言う。が、本当の<日本の憲法論議の不幸>は、憲法とは何かということに対する識見を持たぬ人たちが、権力を拡大するのか縛るのかなどという「皮相」な次元で綱引きを行っていることにあるのではないか。私はそう思うのである。【了】