保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

「新潮45」休刊について(4)~「言論の自由」の重要性~

自民党は杉田氏に注意するよう指導したものの、謝罪や撤回を求めず、処分もしなかった。形だけ取り繕うような鈍い人権感覚が、差別を助長する言動を許したと言えないか。

 子どもを持つかどうかで人の価値を計り、選別するような考え方は容認できない。新潮45への厳しい世論は、少数派を尊重し、多様な社会を目指す人権意識が広がってきた証左でもあろう》(9月27日付京都新聞社説)

 マルクス思想を想起させるかのような「生産性」という言葉を用いたことは軽率と言われても致し方ないとは思われるけれども、他にどのような問題部分があるというのか。LGBT推進派には目障りであろうし、非常に論争的だとは思われるけれども、<謝罪や撤回>が必要であるかのように言うのはむしろ「言論の自由」を損ねるものでしかない。

 社会がLGBTの権利をどこまで認めるのかについて定見はない。言い換えれば、今はまだ議論すべき段階にあるということである。にもかかわらず、LGBT派は議論するまでもないかのようにただ「差別」を盾に反論を封じ込めようとがなり立てる。

 議論を通じて物事を決めていくのが民主主義というものであるはずなのに、日頃民主主義的手続きをうるさく言う人達の方がむしろ反民主主義的な振る舞いや言動を繰り返すのはなぜか。これでは自分勝手なご都合主義と言われても仕方がない。

《私たちの多くの考えは、家庭や職場や学校で、会話や討論や演説によって、いつの間にか形づくられ、新聞や雑誌やラジオを通じて、絶えず強調されて来た、世間一般の考えに過ぎないのである。私たちが自分で本当にものを考えようとするなら、まずこれら世間なみの考えから自己を解放することを試みなければならない。すなわちこれらの考えに、はっきりした表現を与え、これをその根本の想定まで潮って吟味し、その想定を一個のヒュポテシス(仮定)として取り扱い、その反対やその道をも自由に考えながら、それがどのような帰結を伴い、どれだけの範囲に妥当であり、どの点に矛盾があるかを検討してみなければならない》(「言論の自由について」:『田中美知太郎全集第十巻』(筑摩書房)、p. 41)

《ネット言論が台頭し、右傾化した言説や論客が保守系メディアにもてはやされるようになった。同誌にもここ数年、保守系・反リベラルの論者が多く登場している。

 だが、出版メディアがネット媒体と違うのは、さまざまな情報をフィルターにかけ、品質をきちんと管理する編集機能が存在することだ》(9月27日付毎日新聞社説)

 が、<情報をフィルターにかけ、品質をきちんと管理する編集>と口で言うのは容易(たやす)いが、どこに線引きをするのかを実際に判断するのは容易ではない。例えば、そもそも事件の発端となった「杉田論文」一つとっても、これをこのまま掲載してよかったのかどうかはおそらく出版社や編集者によって判断は異なるであろう。

 が、この判断の違いこそが議論されるべきだとすれば、むしろ「杉田論文」はなんら加工を加えず公開されるべきであるとも思われる。

 有名出版社の歴史ある雑誌が、今回のようなことで簡単に休刊に追い込まれてしまうことは、悲しいことである。【了】