一燈照隅(池内の日記)

~天邪鬼(あまのじゃく)の独り言~

自由な言論について

京都府南丹市は昨年11月、精神科医香山リカさんの講演会を中止した。講演を妨害するような電話や、政治団体による街頭宣伝の予告が届いたためだ。予定されていた演題は「子どもの心を豊かにはぐくむために」。市は、母親や子の安全確保を理由に講師を変更した》(411日付朝日新聞社説)

 勿論、このような弾圧はあってはならない。が、

《自由に考え、自由にものを言う。そんな当たり前の行為が、不当に制限されることがあってはならない――》(同)

と社説子が言うほど「言論の自由」は簡単なものではない。

 当たり前のことであるが、「言論の自由」とは自分の側だけではなく相手の側の自由も認めなければならない。「言論の自由」が侵害されていることを問題とするのであれば、自分の側だけでなく相手の側も公平に問題とすべきである。

 が、朝日社説は、自分の側の自由だけを主張し、相手の側の自由は見向きもしない。実際、香山リカ女史の講演会が妨害されたのと同時期に百田尚樹氏も同様の被害にあっている。が、社説子は百田氏の件は取り上げない。これでは左寄りの人達だけが言論を抑圧されているかのように受け取られかねない。

 問題は、思想的な左右の違いを乗り越えて、言論が不自由になっていることにあるのであって、左寄りの人達だけが弾圧を受けているかのような印象操作は言論の自由を正すことをかえって混乱させるだけである。

《デモクラシー社会に危険思想はない

 このことは、いやしくも政治の世界でも言えることなのであるが、立憲政治、デモクラシー政治において、正義ほど危険な思想はない。およそデモクラシー社会において、「危険思想」はありえない。それが良心の自由ではないか。また、いかなる思想を喧伝することも危険だと考えられてはならない。それが、言論の自由ではないか。アメリカでは、共産主義であれナチズムであれ、それが思想運動にとどまっているかぎり、これに圧力が加わらないように大きな努力がなされているではないか。

 ただ一つの例外。それが「正義」である。

「正義」を信奉し、自分は正義の味方であると宣伝すること、デモクラシーにとって、これほど危険なことはない。とは言っても、このような主張を法令で禁止したり、政治的社会的圧迫を加えよと主張するつもりは毛頭ない。しかし、人びとがこのことをよく銘記しておかないと、議会政治は死ぬ。そして、それを前提とするデモクラシーも死ぬ》(小室直樹『日本の「1984年」』(PHP21世紀図書館)、p. 185

 「正義」は自分たちの側にあると考えることほど危険なことはない。独り善がりの「正義」ほど迷惑なものはないのである。