保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

東名あおり運転事故判決について(1) ~罪刑法定主義~

東名高速道路で昨年6月、執拗(しつよう)なあおり運転を受けて停車させられた夫婦がトラックに追突されて死亡した事故で、横浜地裁裁判員裁判は石橋和歩被告に危険運転致死傷罪を適用し、懲役18年の判決を言い渡した》(20181215日付産經新聞主張)

 いきなり余談であるが、産經以外は「被告の男」(毎日・読売・北海道)、「あおり運転の男」(東京)、「東名高速であおり運転を続けた末、4人が死傷する事故を引き起こした男」(朝日)などと実名が伏せられている。別の人物と間違えることはないだろうし、社説文の展開に実名が必要でもないとのことで伏せているのであろうが、果たしてこのような配慮が必要なのか、私はやや疑問に思うところである。

 本題に戻ろう。多くの国民がこの判決を妥当なものだと感じているのだと思われるけれども、検討すべきは今回の判決が「罪刑法定主義」に反するのではないかという点である。

《どんな行為をしたら罪になり罰を受けるか。あらかじめ法律で定め、恣意(しい)的な運用を防ぐのは近代国家の基本だ》(20181216日付朝日新聞社説)

 が、今回の事案では車は停止しており「危険運転罪」に問うにはやはり相当無理がある。

危険運転致死傷罪は、走行中の行為への適用を想定する。今回の事故での適用は難しいとの見方が少なくなかった。弁護側も「停車後の事故には適用できない」と、この罪では無罪を主張した。

 より軽い刑を求めていた弁護側が控訴すれば、適用の是非が再び争点になるだろう》(20181215日付読売新聞社説)

 にもかかわらず、朝日社説子は、

《あまりに硬直した解釈をすると、社会の実態にそぐわず、人々の正義感からも遊離してしまう》(同、朝日)

などと「感情」によって法解釈を変えることの必要性を説く。法で裁けなければそこに「社会正義」を持ち込んで法解釈を恣意的に変えて裁こうとする。が、これほど危険なことはない。

憲法は、「何人も、実行の時に適法であった行為……については、刑事上の責任を問はれない」(39条前段)と規定する。事後法(ex post facto law)の禁止または遡及処罰の禁止として知られるこの原則は、罪刑法定主義の重要な帰結の一つである。実行の時に適法ではなかったが罰則が設けられていなかった場合に、後に罰則を定めて処罰することや、行為時の刑罰よりも重く処罰することも、本条に反するものと解される》(佐藤幸治憲法 第3版』(青林書院)、pp. 607-608

《裁判を通じてその法律の可能性と限界を探るのが、司法の役割だ。地裁、高裁、最高裁で判断が分かれることも十分考えられる。「限界」が見えれば、それを乗り越える新たな立法も検討されてしかるべきだろう》(同、朝日)

 一体「限界」なるものは誰が決めるのであろうか。裁判官か為政者か人民か。いずれにせよ非常に危険な考え方であるのに変わりはない。

 「限界」まで拡大解釈しようとするようなやり方は、安倍政権が解釈改憲によって集団的自衛権行使を容認したのと同じである。安倍政権の解釈改憲だけは認めないというのでは自分勝手な「二重基準」でしかない。【続】