保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

首相を批判するだけの他者否定の虚しさ(2)  ~「悪夢のような民主党政権」の意味~

《「悪夢のような民主党政権

 (安倍晋三)首相がこう言って前政権を批判したのは2月の自民党大会だった。2日後の衆院予算委員会立憲民主党会派の岡田克也前副総理が「政党政治において頭から相手を否定して議論が成り立つのか」と撤回を求めたのに対し、首相は「党総裁として言論の自由がある」と拒否した。

 異なる意見を尊重し合わなければ議論しても意味をなさない。岡田氏はその点を指摘したのだが、首相は言論の自由に論点をすり替えた》(76日付毎日新聞社説)

 正直どっちもどっちである。まず、安倍首相が「悪夢のような民主党政権」だったとの思いを吐露したことがこれから議論する相手を否定することになるとは思われない。裏を返せば「それまではちやほやされていたのに、下野(げや)した途端、人が離れていったあの時代が悪夢だった」と言っているだけである。

 また、岡田氏は頭から相手を否定して議論は成り立たないと言いたいのであろうが、言うまでもなくそれは程度問題であって、ただ「悪夢のような民主党政権」と言われたくらいで議論が成り立たないと臍(へそ)を曲げるのは余りにも「度量」が無さ過ぎる。否、皮肉や諧謔(かいぎゃく)混じりに切り返して見せての議論家なのではないのか。

 一方、<言論の自由>という抽象観念に縋(すが)る安倍首相もまた議論下手である。「悪夢のような民主党政権」という表現は、相手を否定しているのではなく、自戒の念からこのように述べているのであり、百歩譲って相手を攻撃する意味合いが感じられるにしても、それは「批判」であって決して「否定」ではないということを言葉を尽くして説明すべきである。

《国会の役割は、国民の間にある多様な意見や利害を国民の代表による議論で調整し、合意点を導き出すことにある》(同)

 この認識は間違っている。国会は本来的には<国民の間にある多様な意見や利害>を議論する場ではない。複雑多岐にわたる国政問題が国民の日常生活とは乖離(かいり)し手に余るからこそ、選挙によって代表を選び、時間と情報を代表者に集中し、議論を通して物事を決めていこうというのが間接民主制というものである。

《国民の側は国会の議論を通じて必要な情報を共有し、自分たちの代表に誰がふさわしいかを選挙で判断する材料とする》(同)

 これもずれている。殆どの国民には、国会の議論を検討吟味する暇もなければ情報もない、判断に足る知識もなければ興味関心もないのではないか。

 本来有権者が判断すべきは国会での議論の是非ではなく、自分の選挙区に立つ候補者の人柄や人となりが自分たちの代表に相応しいかどうかである。具体的政治問題への意思表明は世論調査によって反映されており、ある意味それで充分だと思われる。【了】