保守論客の独り言

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『新潮45』休刊について(2)~新潮社中瀬部長の熱弁~

9月27日放送のテレビ情報バラエティ番組「5時に夢中」(TOKYO MX)に出演した中瀬ゆかり新潮社出版部部長は今回の件について次のように熱く語った。

「私、元『新潮45』の編集長をやってまして。7年半、2000年の頭から7年半務めさせて頂いたんですけども、その時に、当時はLGBTっていう言葉なんかなかったんですけども、そういうふうにまだ名前がないときにも、でもLGBTの方たちにお願いして寄稿してもらったりとか、いろいろ文章を寄せてもらう形で寄り添ってきたっていう、私の中ではすごく思いが実はありまして。

だから今回休刊に至るプロセス、いろいろあるんですけども、そこに至るのに、やはりその、そういう差別的な表現が問題になって、それでそれをチェックできなかったっていう非常に編集体制の不備とその編集体制を作ってしまった経営責任諸々、すごく深く反省しながらも、そういう傷付けた方たちの気持ちに本当に寄り添っていきたいなと思っているんですけども。

なので、そういう、本来は非常にそういうことをしてきた雑誌であるはずなのに、こんなことになったっていうのは個人としても非常に忸怩(じくじ)たる思いがあるんですが。

本来言論の自由表現の自由、あと意見の多様性、そして編集権の独立っていうものもすごく大事にしてきた会社なんですね、新潮社っていうのは。なんですが、やっぱ編集権の独立っていうのは、つまり、よく言われるんですけども、たとえ社長であっても『週刊新潮』の記事は止められないという言葉がうちの会社で言われているように、権力の介入を編集に許さないということで独立してやっているという、だからそういう意味ではその編集長がそこの雑誌を全部見て、それで作り上げているものなので、そこには介入できないというシステムもあるんですけども、それによって今回こういうものが編集の段階でチェックしきれずに、あといろんな形で常識を超えたものが出てしまったと。

言論の自由っていうのは本当に守らなきゃいけないんですけども、何でもじゃあ言ってもいいのかということはそれは違うと。よく言われる、喩(たと)えがちょっとあれかもしれませんが、満員の映画館の中で誰も火事だと勝手に火事も起こっていないのに叫ぶ権利がないように、なんでもかんでも言論っていうのは言論というだけでいいんだっていう考えはやっぱり違うわけで、今回のケースなんかはそれに当てはまったということなんです。

雑誌は私、土俵だと思ってるんで、本来そこに様々な力士というか言論とか原稿が乗って、そこで戦わされる意見がある、そしてそのある意見に対してほんと議論が百出してそれで社会の方向性っていうものが見えてくるもんだと思ってるんですね。

なので、これによって言論が萎縮したりとか、例えばLGBT方のことは例えば扱うのはタブーだよねみたいな、そんなことになると一番私は悲しいので、そういうことではなくて、今回たまたまこういうことになっているんですけども、そういうタブー視するとか、なんか面倒臭がるみたいな方向ではなくて、これからみんなで社会に対して考えていくっていうそういう意味での影響がそういうふうに出て行くんだったらば、この休刊っていうことにも非常に私は個人的には辛い思いをしましたけれども、でもそれはまだ意味があるとしたらそこだなと思っております」

 今回のような形で言論を自由に戦わせる「土俵」がまた1つ消えていくというのは残念なことである。土俵に上げる人間や意見をあらかじめ選別すれば苦情を免れた「安全な戦い」が見られるだろう。が、民主主義には意見が別れ、賛否両論を呼び、時として物議を醸すような「危険な戦い」も不可欠ではないのか。

 『新潮45』10月号に掲載された7つの論文のうち、喧嘩腰の小川榮太郎氏のものを除けば、残り6つの論文は今回の論争にとって非常に有意義なものであると思われる。にもかかわらず休刊してしまっては、対立する意見をぶつけ合うことで、互いの認識を高め合うということが出来なくなってしまう。【続】