保守論客の独り言

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西日本新聞社説:「日本が『中国化』している」について(2) ~「言論の自由」の履き違え~

公職選挙法は225条で「選挙の自由妨害」の一つに「演説の妨害」を挙げている。しかし、拡声器も使わない個人のヤジに法的な「演説の妨害」を適用するのはかなり無理がある》(7月21日付西日本新聞社説)

 法律的にはそういうことなのであろう。だから道徳的に言うのであるが、選挙演説を野次るのではなく妨害するのは民主主義の履き違えなのではないか。

 選挙とはそれぞれの候補、政党の意見をしっかり聞いて判断するものである。これに雑音を入れるのは判断材料を毀損することに他ならない。選挙では、相手の意見を封じるのではなく、自分の意見を堂々と開陳することこそが重要である。討論会であれば、相手の意見を聞いた上で反論することも有り得ようが、街頭演説をただ妨害するのは卑劣でしかない。

《北海道警は排除した理由を「トラブルや犯罪の予防のための措置」と説明している。これもくせものだ。

 強権国家では当局が言論を抑圧する際、法令の拡大解釈で「違法」としたり、「公共の安全」「トラブル防止」を持ち出したりするのが常とう手段だからだ。

 北海道警がここまで神経質になった理由は何だろうか。極端なほどの「ヤジ嫌い」で知られる安倍首相に忖度(そんたく)したように思える。当局が権力者の意向を先読みして過剰な取り締まりに走るのも、これまた強権国家によくあることである》(同)

 これまた勝手な憶測であって、同様の排除は民主党政権時代にもあったことはネット上で流布されている。根拠もなく単なる憶測でこのようなことを無責任に書いてしまっていることに気付かないような人は新聞人失格である。

《ヤジは「大衆の批評」なのだ。一般論として、好き勝手なことをしゃべっている偉そうな政治家に「引っ込め!」「ウソつくな!」とヤジるのは、大衆の持つ当然の権利だと考える。「表現の自由」の最も原初的な姿とも言えるだろう。

 もちろん行儀は悪い。周りの人はうるさく思うかもしれない。しかし「行儀の良さ」や「その場の秩序」は、「人が言いたいことを言える自由」に優先するほど重要ではない。しかも場所は誰もが通れる街頭だ》(同)

 成程、「言論の自由」とは「言いたいことを言える」自由ということなのであるが、ここで言う「言いたいこと」とは雑音を発して相手の「言いたいこと」を邪魔することまでをも含むものではないだろう。

 自分の意見を述べること、大いに結構である。相手の意見に反論する、大いに結構である。が、自由を破壊する自由が認められないのと同様に、相手の意見をただ邪魔することは「言論の自由」に馴染まないことなのではないか。【了】