保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

『新潮45』問題から「保守」を考える(3)~「暗黙の圧力」を掛けるべきではない~

《その(=保守思想の)根底には人間の弱さに対する温かいまなざしがあるはずなのです。まなざしは自身にも向けられる。自分も間違えるし、絶対的な正解も絶対的に正しい世界観もない、と。

 すると何が起きるか。他者と議論が始まります。自分は間違っているかもしれない。異なる主張があれば相手の言い分をまず聞く。聞いた上で重要な課題があれば調整し、合意形成を試みる。

 保守だと言うならLGBTの問題についてもそんな態度で接するべきです。自分は異性愛者として生き、それを当然のものと思っていても、異なる人々が隣にいる。そんな相手と丁寧に接し、議論しながら合意形成を目指す。自民党稲田朋美さんは、歴史認識については疑問符がつきますが、LGBTについては多様性を尊重するという保守の思想をよく押さえてます》(中島岳志<「新潮45」問題を考える>:毎日新聞 10/9() 16:47配信)

 <人間の弱さに対する温かいまなざし>などという博愛主義から「保守思想」を語るのは誤りであろう。フランス革命時に唱えられた「自由・平等・博愛」という3つの価値は、やはり「左翼思想」の基本と捉えるべきである。

 議論による<合意形成>という話も「保守思想」とは関係がない。それは民主主義的手法を述べたものであって、これもまた左翼的平等主義と言うべきである。

《この20年あまりで「新潮45」のような暴力的単純化を「論」とはき違えた事態が生まれています。8月号の杉田氏の寄稿や10月号の特集は明らかな差別です。少なくとも公的な場で差別的表現をしないという暗黙の合意があったはずです。差別で傷つく人への配慮は、それこそ保守が大切にしてきた礼節なのに、他の雑誌も含め右派系とされる論客に「何でもかんでもぶっちゃければいい」という発想が見えます》(同)

 中島教授は「杉田論文」のどこが差別だと考えているのだろうか。具体論に踏み込まず<明らかな差別>と決め付けるようなやり方を私は好まない。10月号の特集にしても、小川氏のものを除けば、<明らかな差別>と呼ばれるようなものは見当たらない。にもかかわらずこのような粗雑な評価を下すとすれば、中島教授は実際の論文をちゃんと読んでいないか、左翼御用学者のどちらかではないかと疑われる。

 繰り返すが、小川氏の論文を除けば、「杉田論文」にせよ10月号の特集における6氏の寄稿にせよ、<公的な場で差別的表現をしないという暗黙の合意>を破るようなものではなく、そのような公平な判断が出来ないとすれば、学者としての資質に欠けると言われても仕方がないのではないか。

 否、<暗黙の合意>などというものを持ち出すこと自体が学者然としていない。恣意的な「自主規制」によって議論を制御しようとするのは間違いである。議論を深めるために、時として差別的と思われる表現が必要とされる場合もある構えるのが学者というものではないか。

 勿論、私も露骨な差別的表現自体は歓迎しない。直截(ちょくさい)な言い回しを避け、間接的にそれを仄(ほの)めかすというやり方もあるだろう。はたまた、当たりを和らげるために、機知やユーモアを加えたり、冗談や諧謔(かいぎゃく)を交えるといった言論における礼節も必要であろうと思われる。

 が、言うべきことは言うということを「暗黙の圧力」によって抑え込んでしまっては、議論の深まりようがないし、「言論の自由」を否定するかのようなことを学者たるもの口にすべきべきではない、私はそう思う。【了】