保守論客の独り言

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「新潮45」休刊について(1)~朝日新聞の醜い反撃~

性的少数者(LGBT)を巡る寄稿や特集が差別的だとして批判を受けている月刊誌「新潮45」について、発行元の新潮社が休刊を決めたと発表した。同社の広報担当役員は「限りなく廃刊と同義」としている》(9月27日付京都新聞社説)

 事の発端は、『新潮45』8月号の特集「日本を不幸にする『朝日新聞』」に寄稿した杉田水脈衆院議員の「『LGBT』支援の度が過ぎる」と題する論文であった。これに対し、

《彼ら彼女らは子供を作らない。つまり「生産性」がないのです》(pp. 58-59)

の部分だけ切りとって、否、「生産性」という言葉だけを槍玉に挙げ、許されざる差別であるとの批判が巻き起こった。

 この問題の火に油を注いだのが『新潮45』10月号の特集「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」であった。否、特集自体が問題だったと言うよりも、痴漢とLGBTを同列に扱った小川榮太郎氏の論文であったと言うべきであろう。

 今回の「休刊」はこれを擁護しきれなかったことにあり、結果として、LGBT推進派への敗北宣言となってしまった。

 昨今、叩かれっぱなしであった当の朝日新聞は、ここぞとばかりにこの一件を叩く。

《21日付で佐藤隆信社長が「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられた」との声明を出していた。

 休刊を伝える文書には「企画の厳密な吟味や十分な原稿チェックがおろそかになっていた」「深い反省の思い」などの言葉が並ぶ。だが、そこに至った経緯はきわめて不透明だ。

 いったい、どの筆者の、どの表現に問題があったと考えているのか。この問いにも、同社は「外部の筆者だから特定は控えたい」と言うばかりだ。企画に関する編集部内での話し合い、原稿を受け取った編集者の認識、筆者とのやり取りの有無などは明らかにされず、再発防止の取り組みも見えない。

 これでは言論機関の責任放棄と言われても、やむを得ないだろう。10月号の企画の冒頭で「真っ当な議論」を呼びかけたにもかかわらず、一気に休刊に走って議論の可能性をみずから閉ざしてしまったこととあわせ、疑問は尽きない》(9月27日付朝日新聞社説)

 一体どの口がこのようなことを言うのかと言い返したくなる。朝日新聞は「従軍慰安婦捏造」において上で指摘したような点を自ら反省し改善したのか。森友学園問題においても、何ら裏取りをせず籠池泰典氏の話を鵜呑みにし、小学校名が「安倍晋三記念小学校」(実際は開成小学校)であったとして世論を煽ったのは、従軍慰安婦問題の時と同じ構造であり、とても反省したとは思われない。

 が、朝日新聞と『新潮45』とでは意味が違う。朝日は自らが記事を書いているのに対し、『新潮45』は「言論の場」を提供しているだけである。そしてその問題は、管理責任者たる『新潮45』がどこまで意見を戦わせる言論人に制限を加えるのか、すなわち「言論の自由」と「検閲」の問題ということになる。【続】