保守論客の独り言

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8月15日「終戦記念日」社説を読む(16)京都社説その2

「今回の審議がどうぞ再び大政翼賛会のような形にならないように、若い皆さんにお願いをしたい」。1997年の国会で、京都選出の野中広務氏が刺すような高い声を張り上げた。

 米軍用地の継続使用手続きを簡素化する法改正が、野党が加わり圧倒的多数で可決されたことに対する怒りだった。法改正を審議した衆院の特別委員長として、経過報告の中で言い放った。

 「国会が僅差で可決するくらいの緊張感をみせ、沖縄の厳しい基地への思いを米国に表すべきだと思っていた」。(8月15日付京都新聞社説「終戦の日に<下>「大政翼賛会」にならぬよう」)

 日本の国会は、残念ながら、「多数決」による決定こそがすべてであるかのようである。が、それは「多数者の専制」でしかない。

《デモクラシーつまりデーモス(民衆)のクラティア(政治)は、たしかに、民衆という名の多数者が投票に「参加」し「多数決」で集団的意思を決定する、という制度である…つまり、多数決は「少数派排除」の制度にほかならぬ…

 だが、排除の正当性はどこからやってくるのか。それは「多数派の判断がおおむね正しい」とみなすこと以外にはない。これをさして、トックヴィルが175年も前に「知性に適用された平等理論」と(批判的に)名づけた。要するに、平等理論を信じるなら、知性の可能性は万人に等しく賦与(ふよ)されているということになり、次に、足し算として、多数派のほうがより多くの量の知性を蓄えている、という理屈である。

 こんな子供っぽい理屈を信じるのは、あっさりいって阿呆(あほう)のほかにはいない。多少とも人生経験を真っ当に積んだ者なら、「真実をめざすものとしての健全な知性は少数派に宿る」、つまり「啓蒙が大事なのは健全な知性は凡庸な者には近づき難いものであるからだ」という経験則を学んでいる。たとえ(政治的混乱を避けるために)多数決という制度に立脚しなければならぬのだとしても、少数派を議論の場に招いて、その議論の道程で少数派の主張を何ほどか取り入れるという構えがなければ、デモクラシーは「多数派の専制」となる。我が国会において生じているのは、まさにこの種のティラニー専制)である》(西部邁民主党が演じる『政治の死』」:『流言流行への一撃III』(KKベストブック)、p. 114)

 民主制(democracy)が「多数者の専制」に陥らぬためには、多数派にあっては、少数派の意見にしっかり耳を傾けること、また、少数派にあっては、多数派の理解が得られるよう倦(う)まず弛(たゆ)まず説得をやめないことが求められるということだ。