保守論客の独り言

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新高校教科書について(2) ~代案なき知識詰込み批判~

《気掛かりなのは、「知識の詰め込み型」から脱却し切れていない記載も目立つことだ。大学入学共通テストは思考力、判断力、表現力を重視するとしながら、初回の今年は細かい知識を問う従来型の出題が残った。新指導要領に対応した共通テストは25年1月に始まる。高校教育を変えるには大学入試の見直しもまた不可欠である》(4月1日付南日本新聞社説)

 高校教育のどこをどう変えたいのか。知識詰込み教育のせいで、考える力が身に付いていない、だから知識詰込み教育から脱却しなければならないという考え方は果たして正しい認識なのか。それはただの「思い込み」ではないのか。

 「知識」と「思考」の平衡を保つことは重要であろう。が、高校教育において、知識習得に掛ける時間を減らし、その分を思考演習に振り替えたとて、思考力が増すとは限らない。授業中少しばかり考える時間を増やしたとて思考力が養われるはずもない。思考力とは日常生活において考え続けることによって養われるものなのではないか。つまり、「考える習慣」こそが大事だということである。

 無論、考える切っ掛けを授業によって与えることも大事である。が、「アクティブラーニング」がそれに当たるのかと言えば、少し違うように思う。一方通行の講義型授業であっても考えさせることは出来る。逆に、双方向の対話型授業であっても考えさせられるとは限らない。

 そもそも削られた知識で考えさせようとすることに無理はないのだろうか。考えるためには知識が必要である。が、考える時間を確保するためには知識を詰め込む時間を削らざるを得ない。少なくなった不十分な知識で考えれば出される結論も薄っぺらなものに成らざるを得ない。

 さらに、考える力を大学入試で問うことが出来るのかという疑念もある。知識には共通性があっても、思考はバラバラだからである。バラバラなものを入試で問えば経験が異なるのだから不公平が生じてしまう。そこで公平性を保とうとすれば、「思考」とは名ばかりの「知識」に少し毛が生えた程度のことしか問い様がない。が、それは考えるというよりも「知識」の詰め込み方という方法論の問題と言うべきものだろう。

 南日本社説子は<大学入試の見直しもまた不可欠>と言うが、何をどう変えるのか、否、何をどう変えられるのかを提示してもらわなければ無責任である。

 否、高校教育に問題があるのなら、大学入試を変えることで高校教育を変えるなどという回りくどいやり方ではなく、直接高校教育の変革を目指すべきなのではないか。「ドミノ倒し」よろしく大学入試を変えて高校教育を変えようするのは、まったく主体性のない話である。それこそ「主体的、対話的で深い学び」を掲げる新学習指導要領とは正反対の姿勢のように思われる。【了】